災害が育む自然・歴史・まちづくり 
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津波災害


 明治以降、津波災害の最もひどかったのは三陸地震津波です。今までで一番高かった津波は高さ37メートルです。そんな津波が三陸を襲ってきたことが何度もあります。
 東海地方もいくつかの津波災害を受けています。1944年12月7日に東南海地震が起きました。この地震災害では揺れだけではなくて津波もやってきました。海の地震だからです。尾鷲では9メートルの津波でした。尾鷲は津波で町の半分がなくなってしまったのです。残念ながら私たちの世代は小学校でも中学校でも高等学校でもそのことを教えてもらっていません。東南海地震が起きたということすら教えてもらっていません。津波を経験した人が「こんな被害があったのだから、気をつけろ」と伝えてくれなくてはいけません。
 このような甚大な被害を受けたのにもかかわらず、尾鷲はこの教訓を生かさずに町をつくってしまいました。港町なので家々が軒を連ねています。地震が起きれば建物はある程度壊れます。壊れて取り残された人は10分でやってくる津波にさらわれてしまいます。だから誰が生き埋めになっていようと、とにかく無視して一目散に逃げなければ自分の命がありません。でも逃げようとしても家々が倒れ込んでいるので、逃げる道を塞いでしまいます。60年前は中村山という山に逃げたそうです。幸いなことに60年前の地震の時は最初津波が引き波だったのです。海の底が見えるまで水がどっと引いて、その後どっと押し寄せてきました。だから津波が来るまで30分ありました。ラッキーでした。欲張りだった人たちは津波が引いた時に海の底に魚がいっぱいいたので、それを手掴みで捕りに行ったそうです。その人たちは次の押し波で亡くなったかもしれません。欲張りでなかった人たちはちゃんと逃げきれたということを聞いたことがあります。実はもうひとつ逃げ場所がありました。この町の中にもうひとつ山があったのです。でもその山は、今はありません。この町の人たちはその山を削ってしまいました。命を救う山を削って埋立地をつくりました。その埋立地に火力発電所をつくりました。町の活性化のためです。火力発電所に油を供給するために隣に石油タンクをつくりました。さて、これで何が起こるかは分かると思います。コップの中に水があったとします。そのコップを揺らすと、中の水がこぼれます。それと同じことがこのタンクで起きたらどうなるかというと、油が流出します。流出した油を津波が運んできます。油に火がつきます。町は燃え上がります。この後、助けに行かなくてはいけません。でもこんな状況では助けに行けません。先日台風がやってきました。この時、尾鷲の人たちはみんな孤立しました。どうして孤立したのでしょうか。道路が一本しかないからです。どうしてこんな町をつくってしまったのでしょうか。日本人は災害とともに生きてきました。だから災害を恐れながら災害に強いまちづくりをしてきました。でも今はあまりにも自然に対して謙虚でなくなってしまっています。全く過去の教訓を生かしていないのかもしれません。
 しかし、備えを始めた町もあります。それは紀伊半島にある錦という港町です。この町にも今から60年前に津波がやってきました。そして全てがなくなりました。また再び尾鷲と同じように家をつくってしまいました。でも錦の人たちは少しかしこかったのです。実はこの町は両側が川です。逃げようと思っても揺れで橋が落ちてしまったら逃げる場所がありません。財産も生活も奪われるかもしれない。でも何とか命を救わなくてはいけない。そこでどうしたかというと、タワーをつくりました。そのタワーには500人が逃げられるようになっています。同時に電信柱にはスピーカーをつけ、そしてカメラをつけました。常にカメラで監視して、津波がやってくることをキャッチしたら、スピーカーを通して「みんなで錦タワーに逃げろ!」と呼び掛けるわけです。これは生きたいと思っている住民がいる町では実現しています。つい先日の9月5日に東海地方で強い揺れがありました。この時、錦の随分たくさんの人たちがこのタワーに逃げ込みました。一方で我が愛知県の渥美半島の人たちはだれも逃げませんでした。それが過去の教訓をどれだけ生かしているかということにつながっています。
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