3.瀧山寺縁起〜三河の事例
仏教の地域支配への利用
続いて「瀧山寺縁起」です。瀧山寺縁起は額田郡の有名なお寺の事例です。瀧山寺縁起も翻刻されています。『新編岡崎市史』資料編の中の瀧山寺縁起を抜粋します。今残っている瀧山寺縁起は江戸時代初期に書き写されたものですが、中世の半ばくらい、鎌倉末期に出来上がった文章と考えてほぼ間違いないと思われます。長文ですので、ここでは部分的にとりあげざるをえません。
瀧山寺は水源地にあります。瀬戸の定光寺や豊田の猿投神社もそうですし、いろんなところが水源に宗教施設を置いています。水源ですから、そこを押さえると地域社会を押さえやすいという例だと思います。
『それ三河の国額田の郡に一宇の山寺あり。吉祥寺(きっしょうじ)と号す。役の優婆塞(えんのうばそこ)草創(そうそう)の霊地なり』
最初の名前は吉祥寺だったようです。『役の優婆塞』、これは役の行者(えんのぎょうじゃ)などとも言い、修験道の祖に位置づけられた人物です。『草創の霊地なり』、有名人に仮託するわけです。
『一.当寺を初は吉祥寺と号す。役の小角(えんのおづね)吉祥の嶺に住して、当山を建立し給ふ故也。しかりといえども、瀧壺より湧出の医王(いおう)、一天無双の霊像也』
医王というのは薬壺を手に持っているスタイルの薬師如来のことです。ここの薬師如来の仏像が滝壺から出てきたので瀧山寺と呼ぶ、という説明です。笠寺の観音様はインドから流れてきた光る木から出来たということでしたが、瀧山寺の薬師像の素材も霊木だという点では共通する、中世の本尊の出所を説明しています。このあたりはどこまでが作り話でどこまでが事実か確かめようのないところです。
中世に入りまして、
『中興之事(ちゅうこうのこと) 仁王(にんのう)七十四代鳥羽の院の御宇(みう)保安年中に、仏泉上人永救(ぶっせんしょうにん えいきゅう)』
実際は、この時が最初に瀧山寺の出来上がった時かも知れません。仏泉上人永救という人が12世紀の前半、鳥羽天皇の頃に立て直し、中世の瀧山寺が始まりました。縁起にはそれ以後の歴史が詳しく書いてあります。
瀧山寺がどれくらいの規模だったかと言うと、『僧坊三百五十箇所建て』お坊さんが住む建物が350箇所。1箇所に1人ということはありえないと思いますので、少なく見積もっても1000人はいたことになると思います。これが三河の額田郡地域の有力寺院だったとすると、このお坊さんたちの出所はどこかというのが大事な問題です。主に額田郡が中心だと思いますが、三河の国の有力領主の息子たちが中心勢力でしょう。彼らがいかに地域で政治力を持ったかについてのエピソードのひとつが書かれています。
『又語りて云わく、当国の国司八条の中納言憲長、大般若経の書写あり。』
三河の国の国司、今で言うと県知事のような人です。国司は都から地方に乗り込んできて地域を支配するわけですが、いろんな寺、世俗の人に写経を命令する。大般若経というのは600巻もあるお経です。1人1巻書けば600人動員できる。そういう命令、事業をみんなに遂行させることを通じて政治をまとめようという仏教の使い方(写経の政治的効果)があります。600巻のお経を写せといってみんなを結集させる。とにかく何か命令をして遂行させて、国司の命令に従わせる。瀧山寺のお坊さんも30巻分の写経を命じられたようですが、最後まで拒否しました。国司は単なる県知事、公務員というイメージではなく、武士団を率いている時代です。大武士団を率いて瀧山寺に攻めてくるわけですが、瀧山寺の僧侶たちはそれを迎え討ったという話が以下に書かれています。
その時にどれくらいのお坊さんがいたかという数字として、『衆徒等も数百余騎城郭を構へ』とあります。『衆徒』というのは僧侶たちです。『数百余騎』一騎とは馬に乗っている、武蔵坊弁慶のようなものをイメージすればいいと思います。徒歩で従う者もいますから、それを考えるとこの2〜3倍という数字を想像させる文章です。誇張はあるでしょうが、京都の政治に対して独立を保ったという話です。そのお坊さんたちの出所は地域の領主たちです。笠寺の例と同じで地域の領主、武士たちは、地域で武力支配は出来ず、普遍的な宗教である仏教の世界に入り込む形で、仏教勢力として地域を政治的に支配しようとしました。しかも笠寺のような1人の領主ではなくて、額田郡を中心に三河各地の領主たちが結集してひとつの政治力を持っていました。1人飛びぬけた領主は出て来られなかったし、また武士としての暴力支配が出来たわけでもなかった地域です。
史料には明確には出て来ないのですが、その背後に、武力を嫌う、有力領主の単独支配を望まない、成長した一般民衆の世界があったと想像出来ると思います。