愛知県の歴史 (2)中世 尾張・三河の中世仏教 
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尾張と三河

<地域史への視点>

 日本の中世においては、尾張と三河は東国なのか西国なのか。
 中世の政治的拠点は、ひとつは鎌倉幕府、もうひとつは京都の朝廷です。朝廷は鎌倉・室町時代でもなくなったわけではありません。政治的に東国と西国という2つの拠点があり、それは文化を含めたいろいろな点で二分されるという見方がかなり以前からあります。尾張・三河については、土地制度で言えば東国だ、経済的には西国に近い、尾張と三河の間で行政を区切ると尾張は西国だが三河は東国だ、等いろんな意見があります。また朝廷が出した法令、源頼朝が出した文書で東国と言う時に、三河だけを含む場合、三河と尾張を含む場合といろいろあって揺れています。したがって東国・西国のどちらか一方というよりは「尾張・三河地域」、または「尾張地域」・「三河地域」、さらに少し広くとって「東海地域」といった地域史への視点で、歴史的に中世ではどういう特徴を持つのかを考える必要があると思います。


<陸路と水路>

 この地域が他と交渉のない地域ではないということ、陸路では東海道が突き抜けていることはよく知られていますが、最近の中世史研究では水路、つまり河川の交通はもちろん、太平洋でいかに頻繁に東西行き交われていたか、具体的な資料によって明らかにされています。その中で陶器産業をはじめとして、濃尾平野の生産物なども東西に運ばれています。そういう陸路・水路の広がりの中でも地域史の特徴を考えることが、課題として尾張・三河の歴史に要求されています。

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