先程も言いましたが、『チャク』を再び始めてから先住民の社会に非常に大きな変化が起きました。
その背景にはいろいろな事がありますが、歴史をちょっと辿ってみますと、1940年、ペルーに自然保護委員会ができました。ビクーニャの保護が目的です。しかし全然効果がなく、1965年の調査ではビクーニャが1万頭を割ったと発表されました。絶滅の恐れが出てきたということです。そして1966年にパンパ・ガレーラスが保護区に指定されました。また、1972年にはドイツが援助をしてインフラ整備をし、武装警備隊や監視システムを作りました。
一方で、1975年にワシントン条約という野生動物保護の条約にペルーが批准しました。このため、ビクーニャの毛の取引が禁止されました。さらに1980年代になりますと、極左テロ集団センデロ・ルミノソが、山岳地帯のかなり広くを勢力下に収めてしまいました。この保護区も攻撃され、ドイツの援助もひき上げてしまいます。
ところがもう一方で、1987年にインカの知恵を復活させようという研究をしていた人たち、あるいは政府の農業省関係の人たちなどが働きかけて、野生動物の合理的利用をワシントン条約の本部に訴えかけました。それが認められて、ビクーニャの毛の取引が許可されました。
1990年にフジモリ政権が誕生し、この後、国内の治安が急速によくなります。かなり強権を発動しますけれども、センデロ・ルミノソのリーダーであるグスマンという人を逮捕するなど、いろいろな政策によって国内の治安が安定します。経済に関してもインフレがおさえられました。
そのフジモリ政権下において、ビクーニャの管理を農民の共同体に付与するという法律ができました。1993年、地元の人たちがフジモリ大統領を招いて、お祭りとしての『チャク』を開催することが実現しました。最初はなかなかうまくいかなかったのですが、だんだん技術が改良され、現在、ビクーニャは十数万頭にまで増えています。そして、非常に多くのビクーニャが捕獲可能になっていて、それにより現金収入が得られます。住民はビクーニャの価値を認識し、密猟も減って、個体数が増加しています。ルカーナスだけではなく、保護区以外にも、たくさんのビクーニャがおり、『チャク』はビクーニャの生息地全体に普及しつつあります。