死にゆく患者の心に聴くーターミナルケアと人間理解ー 
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ある患者さんとの出会いから

 理解的な態度の重要性を知ったちょうどそのときに、一人の患者さんと出会いました。この患者さんは、病院の近くで仕事をしておられた理髪店のご主人ですけれど、この方は胃がんでした。そして、だんだん弱ってこられて、ある日病室に行くと、いつもと様子が違うんです。私は、「これはちょっと今日はいかん」と思ったんです。その通りで、椅子に座ってお話をしていると、初め世間話をしていたのですけれど、だんだん目が据わってきまして、じっと私の顔を見て、
 「先生、わしもうあかんのと違いまっか」。
 私はびくっとしました。いつもこの言葉が一番嫌なのです。「もうだめなのではないでしょうか」という言葉を聞くと、本当につらいですね。対処できない。しかし遺言のごとく、「安易な励ましはいけない」と私に教えて亡くなった人、そのあとそれにショックを受けて一生懸命勉強して、こういうときには理解的な態度をとらないといけないことを学んだ私が、そこで安易に励ますことはできないですね。それで、理解的な態度とはどういう態度かといいますと、「私はあなたの言葉をこのように理解したんですが、私の理解で正しいでしょうか?」ということをもう一度相手に返すような態度、これが理解的な態度です。具体的に言いますと、患者さんの言われる言葉を少し自分の言葉に変えて、もう一度返してあげるような態度です。そこで、「わしもうあかんのと違いまっか」と言われたので、私は本当に一生懸命、
 「もうだめかもしれん。そんな気がするんですね」と言ったんです。
 これが良かったのです。
 「そうだんねん。もう入院してから三月(みつき)だっしゃろ」と患者さんは言われた。
 これが理解的な態度です。「あなたは『もうあかん』と言われました。私の理解では、もうだめかなあとそんな気持ちになっておられるような気がするんですが、それで正しいでしょうか」ということを相手に返したんわけですね。私は、
 「そうねえ、早いねえ、もう三ヶ月になりますねえ」。
 三月を三ヶ月に変えましたけど。あんまりオウム返しだと不自然です。そうしたらじっと私の顔を見ながら、
 「わし、この頃ねえ、だいぶ悪いような気がしましてねえ」。
 いかにも切なそうに言われました。
 「ああそうですか。なんかこう次第次第に衰弱する、そんな感じなんですねえ」。
 悪いを衰弱に変えました。その次です。この会話はそんなにスムーズに運んでるわけじゃないんですね。会話と会話の間に耐えがたい間があるんです。それから、自分の感情を全部出されたような感じで、
 「先生、この頃わし、死ぬのがこわーてこわーて」。
 こういわれたんです。私はその患者さんの怖さをそのまま感じることはできないですけれど、とにかく、怖いという言葉に対して、
 「ああ、そうですか」。
 それしか言えなかった。そのときは理解的な態度なんて言って、「怖い怖いとそんな感じなんですね」とはもう言えないですね。もうそこでは、患者さんは弱音を出しきったわけです。死が怖いというのは、最後の言葉です。それに対してはね、「ああ、そうですか」でいいんです。私が「ああ、そうですか」と言った途端に、すーっと緊張が解けました。患者さんの顔つきが変わりました。もう弱音を吐ききったんです。本当に不思議なんですけど、いつものような顔になって、
 「先生ねえ、今日娘がたこ焼き持って来てくれましてねえ」。
 死ぬ話から急にたこ焼きです。たこ焼きの話だったら、私いくらでもできますね。たこ焼き談義が終わり、それで一応その日は終わって、これで何が実現したかというと、三つのことが実現したんです。第一に、安易な励ましによって会話がストップしなかった。第二に、会話が持続し、しかも会話をリードしたのは患者さんであるということです。私は後からついていっただけです。理解的な態度の大きな特徴は、会話をリードするのが患者さんであるということです。そして第三に、患者さんは弱音を吐ききることができた。それから死という言葉を会話の中で、表現できたということです。なぜ私が今まで安易な励ましをして、こういう会話ができなかったかというと、患者さんが死というものを持ち出してきたときに、その死の恐怖に対して、私自身は何もできない。だから、そんなところへ連れて行かれないように、安易な励ましをして、途中で切っておこうと思っていたに違いない、と自己分析をしたんです。
 この体験をしてから今まで、多くの患者さんが、死の恐怖を、死ぬことが怖いということを言われました。それでわかったことは、患者さん自身は、その死の不安、死の恐怖を何とかしてくれというふうには言われないんです。ただ、死が怖いということをわかってほしいのです。私自身は、そのままわかることはできません。一度も体験したことがないわけですから。だからそこで言えるのは、「ああ、そうですか。怖いんでしょうね」だけです。しかし、患者さんはそれで満足されます。医者に死の恐怖を取ることなどできないということは、患者さんはご存知です。そんなことは望んでおられない。ただ、死が怖いということだけはわかってほしい。そして、死が怖いということを言うことができるように、寄り添ってほしい。そういう希望を患者さんは持っておられるようです。

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