「奥の細道」を辿って芭蕉は東北にやってくるのです。芭蕉を論ずる人々はたくさんおいでになりますが、芭蕉が「奥の細道」の旅を計画したとき、心の奥底に「日本海で落日を見たい」という気持ちがあった、ということを言った人は私の他に誰もいないのです。だから私の説はひょっとすると正しくないのかもしれない。けれど、私はそう信じ込んでいるのです。
芭蕉が江戸を発つのは四月ですね。そして福島を経て、仙台に行きます。多賀城に行って壺の碑を拝見し、松島に出てから北上して平泉に行くわけであります。平泉に行って金色堂を前にして作っております。
五月雨の降のこしてや光堂あのとき光堂(金色堂)の地下には藤原三代のミイラが収められていました。しかし芭蕉はそのことを知りません。もしも芭蕉が藤原三代のミイラが眠っていると知っていたら、どんな句を作ったでしょう。
夏草や兵どもが夢の跡
ところが芭蕉は、平泉までやって来て、その後引き返してしまいます。あと半日ほど歩けば花巻に来たのに、と思うと残念なんですが。私はずっと考えたのです。なぜ芭蕉は平泉まで行った後引き返したか。早いところ山形に行きたかったからではないでしょうか。
途中山寺に寄って、
静けさや岩にしみ入る蝉の声といった俳句を作り、出羽三山で月山・羽黒山・湯殿山にお参りをしてまた俳句を作る。そしてさっさと最上川に出て、最上川を下って酒田に出た。ここですごい夕陽を見るのです。そこで作った句が、奥の細道の中で一番輝いている作品ではないかと私は思っています。実際に芭蕉が行ったときは曇っていて、落日は見れなかったはずだと言う人もいますが、こういうリアリストの言うことを私は信じません。
暑き日を海にいれたり最上川足元を最上川がものすごい勢いで日本海に流れていく。その勢いに押されるようにして、真っ赤に燃え立った熱い太陽が水平線のかなたに沈んでいく。最上川の川の流れと落日の動きですよね。これが同時に低い目線でとらえられた。教科書では“五月雨をあつめて早し最上川”が良い句だと言われている。けれどそんな常識は信じません。
日本海の落日で一番美しいのが、八月の真っ盛りだということは昔から言われていました。私は芭蕉もそれを知っていたと思います。それで真夏の真っ盛りに酒田のあの最上川の河口に立った。花巻まで行っている余裕はなかったのです。これは私の解釈ですが。
芭蕉はもう一つ『野ざらし紀行』という旅日記を作っていますが、最初のところで富士川を渡る場面があります。そこで捨て子に会うのです。その捨て子に何と言ったか。お菓子を投げ与えて、「お前は父親が憎いか。母親が憎いか。父を恨むな、母を憎むな。」と言ってスタスタと通り過ぎて行った。あの場面の解釈がまた難しい。私はあの場面に芭蕉もまた親のない子だった、という彼の少年体験を重ねて解釈することにしています。
自分が捨て子として、親のない子として辛い人生を生きてきたように、お前も生きていけ。親を恨むな。子供の運命とはそもそもそういうものだ。先ほどの柳田国男の子守唄ではありませんが、すべての人間が捨て子の運命をどこかに抱えている。されば夕方になって夕陽を拝め。するとそこに親のイメージが浮かび上がってくるぞ。親は夕陽の真中に。その『野ざらし紀行』の富士川の捨て子体験を『奥の細道』の酒田の落日体験と私は結びつけたい。『奥の細道』では芭蕉は、酒田で見た落日のかなたに何があるかは一言も語っていません。しかし私は、そのとき芭蕉はあの日本海のかなたに沈んでいく落日の中に、暑き日の中に、ひょっとしたら親のイメージを思い浮かべていたのかもしれないと思うのです。