夕焼け小焼けー日本人の自然観、生命観ー 
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歌われなくなった「子守唄」

 今から18年ほど前のことになりますが、東京のある新聞の投書欄に、あるお母さんからの投書が載りました。その内容は、子供に子守唄を聞かせていたところ、その子供がむずかりだし、布団をかぶって拒否反応を示した。これは一体どうしたことだろう・・・そういう疑問をぶつける投書でした。そうしたらその翌日から同じ投書欄に、同じような悩みを訴えるお母さん方の投書がどんどん掲載されるようになりました。編集部でも不思議に思い、これは単なる偶然ではないと調べ始めました。しかし10日間くらい経っても結局、なぜ子守唄を聞いて子供たちがむずかりだしたのかわからず、さじを投げた記事を載せてその調査を打ち切りました。私も考えたけれども、見当がつきませんでした。
 ところが翌年になりまして、藤原新也さんという作家の方が、自分はその原因をこうだと思うという分析を同じ新聞に寄稿いたしました。藤原さんによりますと、
 「今の子供たちが子守唄を聞いてむずかりだすのは、朝から晩まで民放が流しているCMソングの影響だろう。代表的なCMソングをTVから採集して分析したら、その全てが長調の音楽であった。日本の代表的な子守唄のメロディは短調である。今の子供たちというのは朝から晩までTVにしがみついて、にぎやかな、騒々しい長調のCMサウンドばかりを聞かされている。だからたまに子守唄のあの哀調を帯びた悲しげな歌が聞こえてくると、拒否反応を示したのではないか。」
 これを読んで私は驚きました。現代日本はいつの間にか短調排除の時代になってしまったようです。私は藤原さんの文章を読んだとき、こう思いました。「悲しみの旋律を聞くことのできない子供たちは、他人の悲しみがわからない子供たちに育つかもしれない。」
 この後、横浜で中学生たちがホームレスの老人を襲って殺害したという事件が起こりました。以後十数年間に、どれだけの少年犯罪が続発したでしょう。今にして思えば、子守唄の話と横浜の事件との間には関係があるのかもしれない。他人の心の痛み、他人の心の悲しみを理解できない子供たちがもし大量に発生しているとすれば、少年犯罪もそれに応じて凶悪さを増すことになるのではないでしょうか。

 それで私は気になりまして、ミュージックショップに行って、今音楽教材として子供たちにどのような歌が教えられているか、調べてみました。ものすごい数の音楽教材が販売されていました。それをずっと見ていきましたら、その中に『五木の子守唄』『中国地方の子守唄』等の、日本の伝統的な子守唄はほとんど出てきませんでした。今家庭でも、幼稚園でも、小学校でもほとんどあの伝統的な哀調を帯びた子守唄は歌われていないんです。これは大変なことだ、50年間日本の教育は一体何をやってきたんだと率直に思いました。

 実は子守唄が全くないわけではないのです。ブラームスの子守唄と、モーツァルトの子守唄はちゃんと入っていました。しかしいつの間にか日本の子守唄が削られていました。気持ちはわかります。というのは、日本の伝統的な子守唄に歌われている世界というのは、貧しい家の娘が金持ちの家に行って子守りをするという、そういった設定がベースになっています。前近代的で封建的で、差別と貧しさにあふれていた日本の社会。そういう社会に生まれた歌が子守唄です。それに比べてブラームスとモーツァルトの子守唄につけられた歌詞を読みますと、これはヨーロッパの中産階級の家庭をベースにした子守唄です。理解のある父親がいて、優しい母親がいて、美しい清潔なベッドがあって、人形があって、お菓子があって・・・。そういう光景が自然に浮かび上がってくるような、そういう世界であります。
 日本の近代というのは、遅れた日本が近代的な進んだ社会を創るために悪戦苦闘した百年でした。この近代化の路線を辿ったことは正しかったと私は思います。今日の我々の繁栄した社会生活はそのおかげであります。しかしそのことによって失ったものもある。それはあの悲しみの旋律ではないか。他人の悲しみ・苦しみ・痛みを理解する歌声だったのではないかという気がするのです。

 そうしてミュージックショップを歩いているうちに、だんだん悲しくなってきました。今日の日本の教育界には、子供たちを教育するための教材の中に伝統的な子守唄がないなんてことが本当にあっていいのか。
 でも、やっとのことで、ようやくひとつ見つけました。たっぷり日本の伝統的な子守唄を歌っているCDを1枚だけ。誰が歌っていたと思いますか。渥美清さんであります。『男はつらいよ』シリーズのあの渥美清さんがお亡くなりになって、彼の仕事を追悼するための記念アルバムCDが編集された、その中に出てきます。『日本人の叙情曲集』というものです。ちょっとくせがあるんですね、渥美さんの歌は。だけど、あれがたまらない。『五木の子守唄』良いですよ。『中国地方の子守唄』も。ああ、日本人はまだ捨てたものじゃないと思いました。子供たちは学校や家庭で子守唄を教えられなくても、年を取れば寅さんシリーズをみることができる。

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