夕焼け小焼けー日本人の自然観、生命観ー 
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はじめに~イスラエルを旅して~

山折先生
 今からちょうど7年前でありますが、1995年の秋に私はイスラエルに参りました。そのイスラエルへの旅を終えたとき、ひょっとすると第3次世界大戦がこのイスラエル、パレスチナの地方を発火点にして発生するかもしれない、そういう不安な予感に襲われたことを思い出します。
 イエス・キリストが歩いた道を自分の足で辿ってみたい、そういう願望を私は学生の頃から持っておりまして、それが実現したのがその年でした。飛行機でテル・アビブ空港に降り、北上してナザレへ、それから東のガリラヤ湖に参りました。その後ヨルダン川を南へ下って最後にエルサレムの都に入りました。私はバスと車でそこを通ったのでありますが、驚きましたのは、行けども行けども一望千里、すべて砂漠、砂漠、砂漠でした。地上に何もない。本当に何もない。そのときはっと思いました。地上に何物も頼るべきものはない、とすれば天上のかなたに唯一の価値ある源泉を求めるほかにない。絶対の唯一神が天上のかなたに存在する。そういう「一神教」の宗教が発生してくる風土的な背景。これがこの砂漠的な世界なんだ。そのことが理屈を越えて実感として迫ってきました。

 このようにして天上のかなたに唯一の価値あるものを求めた宗教が三つあります。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教です。それぞれが天上のかなたに別々の神を信じて、エルサレムという都の狭い地域に危うく共存している。しかし、今後もこのままの状態で続くのであろうか、この平和共存の危うい緊張を維持することができるのかという大いなる不安を感じながら、私は日本に帰ってきたのです。
 イスラエルの旅を終えて帰ってきて、日本の風土を見たときほっといたしました。この豊かな自然、緑なす山々、清冽な川、大いなる大海原に囲まれているこの日本列島の豊かさ。山の幸、海の幸に恵まれているこの日本の風土。我々は何も唯一の価値あるものを天上のかなたに求める必要はなかったのだ。地上の至るところに我々の心のよりどころになるものが存在している、ということを理屈を越えて実感でわかりました。私は皆さん方にもし機会があれば一度、砂漠の地域にお出かけいただきたいと思います。いかに日本の風土というものがありがたいものかということを実感としておわかりいただけるのではないかと思います。

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