映画を読むとはどういうことか 
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ショット(カット)

 映画とはショットだともよく言われます。アメリカの映画のコンティニュイティーも含めたスクリプトには、ミディアム・ショットならMDと略語でセリフの前に書かれています。それによって、セリフをどのようなショットで撮影するかが分かるのです。
 ショットとは漫画で言うと1つのコマ、カメラ1回の動きです。映画の最小単位です。エスタブリッシング・ショットとは、作品のテーマを全部凝縮しているショットです。フリッツ・ラングの『M』(1931)におけるエスタブリッシング・ショットは、文学作品ならば「エリー、エリーと母が呼んでもエリーはどこにもいなかった」というような文章になるところが、ここでは空の皿と椅子だけがワンショットで捉えられます。それだけで、エリーの不在と殺されていることがわかるのです。映像にしかできない表現です。
 オーソン・ウエルズの『市民ケーン』(1941)では、妻スーザンが自殺未遂をする場面があります。全面に大きくガラスのコップとスプーンがクローズアップで写され、その後ろに黒々とあるのが実はスーザンです。スーザンは有名な歌手になるようにと夫ケーンにものすごく圧力をかけられて、それにとうとう耐えきれなくて死のうとします。この映画を撮影した有名なカメラマン、グレッグ・トーランドはディープ・フォーカスという手法を使いました。ぼけずに奥まではっきり見えて、画面に奥行きを作り出しています。縦の構図と言ってもいいでしょう。しかも、普通はこのような場面のクローズ・アップでは一番手前に人が写るはずですが、ここではコップにスプーン、瓶なのです。彼女は薬で自殺未遂したのですが、人間より手前にある物がはっきり見えて、なにやら見える黒いものが人間だということはケーンがドアを蹴って入ってくるまではわかりません。これは象徴的なショットです。つまり、実在の新聞王がモデルのケーンは新聞王になり、美術品を世界中から買い集め、動物園まで造って、ものすごいお城に住み、物に囲まれているのですが、物が人を支配し、最終的には満たされないということがこのショットにもよくあらわれているのです。
 スタンリー・クレイマーの『招かれざる客』では、黒人と白人女性のカップルを乗せた運転手が、2人をミラー越しに不快そうに見ているというのがエスタブリッシング・ショットです。白人女性と結婚しようとしている黒人のシドニー・ポワチエが、女性の両親に会いにいくところです。不快な視線で見られる立場になった2人はこれから両方の親等のさまざまな反対に遭いますが、それを予告するショットと言っていいでしょう。
 ハワード・ホークスの傑作西部劇『赤い河』には、偶然に起こったことで可能になったショットがあります。殺された仲間を埋葬する場面をロケしていたところ、偶然にも雲が山を覆っていきました。これは仲間の死とぴったり一致した奇跡の瞬間です。ホークスはすばやくこの雲が山を覆うのを埋葬場面のワンショットに収めました。こういうときに映画を見る人はすごいと喜ばなくてはいけません。
 ロング・ショットは画面を遠くまで引いて対象物を撮る場合に使い、全体を見ることができます。西部劇やコメディーでもよく使います。チャップリンがちょこちょこしている動きを効果的に見るにはこのショットが必然です。顔は特定できませんが、客観的に全体を見渡すために使われます。キートンもチャップリンもロング・ショットを使いましたが、1992年のアッパ・キアロスタミの『そして人生は続く』の最後で使われたロング・ショットでは、ペーソスとユーモアがあふれ、主題上からも絶対にロング・ショットでなければいけないことがわかります。
 フル・ショットは全身です。日活の裕次郎などがよく足を広げて立っていました。人物を大きく見せることができます。ミディアム・ショットとは厳密には腰から上ですが、室内ショットではミディアム・ショットに使われることが多いです。
 トリュフォーの『大人は分かってくれない』(1959)では、最後がバスト・ショットのフリーズ・ショットになっています。フリーズとはパッと止まってしまうことです。感化院に入れられていた主人公の少年ジャン・ピエール・レオーが逃げ出してきて、見たことのない海にやってきます。少年は海の前で一瞬止まり、顔をパッとこちらに向けたときにフリーズ、カメラは止まります。つまり、海にも行けず、少年院にも戻りたくないという宙ぶらりんの少年の緊張した顔が、フリーズでしか表現できないことがわかります。
 『テルマ&ルイーズ』(1991)の最後もフリーズ・ショットです。浮気をしている短気な夫に嫌気がさしたテルマと、煮え切らない恋人に嫌気がさしたルイーズという女友達2人が、車に乗ってグランドキャニオンに向かいますが、やむを得ず犯罪を起こしてから追跡される目に遭って、最後にはグランドキャニオンの谷に落ちるはずなのです。ところが、「私たちは後に戻らないから行こう」と2人で手を握りしめてアクセルを踏んで、車が宙に飛んだ瞬間にフリーズして止まるエンディングになっています。これも主題上必然的なショットです。落ちるのでなくて天空に止めることによって、テルマとルイーズを敗北者にしない物語にしたのです。
 バスト・ショットは小津安二郎がよく使いました。クローズ・ショットは対象物にだんだん近づいて撮るものです。ウエスト・ショットなど、ミディアム・ショットにもいろいろな種類がありますが、大きく分けるとロングかクローズか、ミディアム・ショットかということです。対象物に近づけば近づくほど見る人間の感情が、あるいは作品全体の関心・感情が強化されます。その典型のショットはすでに述べました『散りゆく花』のリリアン・ギッシュが唇を開けるクローズ・アップで、非常に有名です。80年代以降ではビム・ベンダースの『パリ・テキサス』で、ナスターシャ・キンスキーがカラーで大写しのクローズ・アップを見せています。
 リヴァース・ショット、切り返しショットも重要です。『東への道』の氷渡りの場面では切り返しショットが使われていますが、見るものと見られるものの間の緊張が劇的な感情を高めています。厳密に言えば、30度から40度の角度で傾いた側からそれぞれのショットを撮って、それをモンタージュするのです。
 フィックス・ショットとはカメラをある場面に固定して撮ることです。『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がフィックス・ショットでした。小津安二郎も、彼の影響を受けたビム・ベンダースやホウ・シャオシェンもこれをよく使います。一定の場面の感情をためる場合に効果的です。
 パンとはパノラマ撮影の略です。ヒッチコックの西部劇『裏窓』の最初はパンです。カメラを水平軸に沿って左右に動かして撮ることで、広い空間を把握するときに使います。蓮實重彦は、あらゆる画面は移動撮影かパン、ティルト(上下に軸回転する)、固定ショットの4つしかないと言っています。厳密にはもっと細かいものがあるでしょう。
 ショット(画面)が集まってシーン(場面)になり、シーンが集まってより大きなグループ、シークエンス(局面)というつながりを持った場面になります。ついでに言いますと『サイコ』の有名なシャワーシーンはシークエンスではありませんが、ショットの意味を考えるのに有効だと思いますので紹介します。ジャネット・リーが浴室で殺される45秒のショットは7日間もかけて撮影されたと言われており、70のショットから成っています。お風呂は裸になるところなので、プライバシーを侵されることと性、殺人という問題が45秒の短いショットの中に描かれているのです。それが作品のテーマです。これは後にデ・パルマが『殺しのドレス』(1980)で引用しましたが、デ・パルマやアンリ・ジョルジョ・クルーゾの『悪魔のような女』(1955)らと比べると、ヒッチコックの技が光ります。
 ワンシーン・ワンショットとは長廻し映像と呼ばれるもので、斜角の構図で有名なオーソン・ウエルズの『黒い罠』(1958)を例に挙げます。一台の車が奥から真っすぐに前面に来ますが、左右に荷物の馬車や人が往来するのでしょっちゅう止まらなければなりません。普通フィルム・ノワールでは車はスピード疾走するのに、ここでは何度も邪魔が入って止まるような撮り方をしているのはなぜでしょうか。速いはずの車が斜めや横から来る物売りや人に邪魔されて何回も止まるのは、メキシコ国境の町の混沌と混乱にふさわしいからです。このクレーン・ショットによる長廻しの移動撮影はその後の様々な作品に大きな影響を与えましたが、爆発が起こってからは、手持ちカメラに変えることによってこの場の混乱した状況を効果的に撮影しました。ぐらぐらした手持ちカメラの映像は、まるで爆発の現場に居合わせたかのようなドキュメンタリー風の生々しさを表現しています。また、最初にカチカチと規則的な音がしますが、これは車に爆弾を入れたときから実際に流れた時間をあらわしています。ワンシーン・ワンショットなので1回のカメラの回した時間ですが、3分40秒もあります。編集によって違いますが、完全版では3分70秒ぐらい、完全版でないものは3分弱の長廻しになっています。
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