映画を読むとはどういうことか 
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映像言語と文法

 映画には文字言語はありませんが、言語に似たものはあります。映像文法に関しては、デイビッド・ボードウェルなどが様々な角度から研究しています。実際に映像文法とは何かをフレームから順に簡単に説明しましょう。

フレーム(枠取り)

 映画は枠取りだと、よく言われます。垂直の構図とか水平の構図、縦とか横などと言われますが、構図によってイメージが異なります。映画では、人や物が横に平たく並んでいるのか、奥に並んでいるのか、横に歩くのか、奥に向かって歩くのか、奥から前に来るのか等によって、イメージが変わり、従って、意味づけ・解釈が異なってくるのです。
 溝口健二やウィリアム・ワイラーなどは縦の構図を、オーソン・ウエルズは対角・斜角の構図をよく使いました。ウエルズはいろいろな構図を使っていますが、水平の構図はあまりありません。小津安二郎は水平の構図を使いましたが、これは平たい感じで、安定しています。しかし、小津の水平の構図は、後で述べるように安定しているのかどうかわからないような印象を与えています。構図だけではなく、カメラ・アングルなども関係してくるからです。
 対角・斜角としてはドイツ表現主義の『カリガリ博士』の構図が挙げられますが、これはホラーとかフィルム・ノワール(犯罪映画)などに多用され、不安定さや緊張、恐怖などを表現します。部屋を写すならば平たく写すのではなく、部屋の隅が一番向こうにあるように写すのです。三角に向かって人が立っている斜角の構図は、人の心理の不安定さや恐怖をあらわす構図となります。
 エイゼンシュタインは『戦艦ポチョムキン』(1925)で有名ですが、そこではいろいろな構図を使っています。水兵たちの反乱に対して、戦いを支持した民衆たちがたくさんの小船で集合して団結しますが、陸で見ている人たちも団結の合図を送っています。これは非常に有名なシークエンスです。階段の線は少し斜めですが、横の構図です。女性が持つ丸いパラソルは、平和のイメージである円をあらわします。水兵たちの反乱なので、船のマストは力強さをあらわします(違うコンテクストでは権力をあらわす)。コザック兵にやられる場面ではパラソル、平和が消えてしまいます。
 「オデッサの階段」では横の線に対して奥から前方のカメラの方に人々が逃げてくるのですが、そのために迫力が生まれます。後ろから来るコザック兵とは光と影で表現されており、有名な集団シーンです。乳母車が階段から落ちてくるシーンでは母親のクローズ・アップが効果的です。最近のケビン・コスナー主演の『アンタッチャブル』ではこの乳母車場面が引用されて出てきますが、ここでの乳母車は車輪が太くてどたどたと落ちてくるので、よくないのです。この暴力の場面では、細くきゃしゃで壊れそうな車輪が、今にも消えようとする赤ん坊の命を象徴しているようで、それが必然的に選ばれているのです。
 階段のシーンについては、ヒッチコックが『海外特派員』で階段での暗殺の場面に引用していますが、さすがにヒッチコックです。「オデッサの階段」の白いパラソルは、ここでは暗殺にふさわしい黒い傘になっています。ポチョムキンではさまざまな構図が使われていますが、小船が集まるところから始まり、縦に立っているものと横にあるものがいくつも重ねられて、最後の「オデッサの階段」に行くように作られているのです。非常に構築的あるいは弁証法的で、一つ一つ重ねていったのが最後に爆発する力になるように作られていることがわかります。この場面のコマを全部分析した本も出ています。
 ついでに引用についてお話します。引用とは先人に対するオマージュ、尊敬と、それを引き継ぐという意志を、新しい自分のスタイルで表明することです。小説の場合の盗作とは全く異なります。ジャン・ポール・ベルモンドはゴダールの『勝手にしやがれ』の最後で、路上に倒れて死ぬときに唇を笑った顔にしようとすることによって、映画の始祖グリフィス描くギッシュに敬意を払っています。あるいはロバート・アルトマンの『ウェディング』では、品よく老いてすてきなおばあさんになったギッシュが出ており、彼女が亡くなる場面から始まります。

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