学校におけるヒドゥン・カリキュラムの実際 
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体育教師のヒドゥン・メッセージ ―体育教師のイメージ―

【体育教師イメージの両義性】

 1つは、体育教師といったときに体育を外して教師であるということ自体が、今の学校制度とか学校文化、権威性みたいなものを既に背負って見られるということです。例えば教師は成績をつける人とか評価する人、指導する、教える、罰する、自由を拘束する人という見方で、権威性を持った人物として子どもたちは受け取っています。その上に体育がつくと、もっと権威性を持っているようなイメージで見られるのです。
 特にネガティブな面について、私は体育教師である自分を自己否定する気はないのですが、マイナス面にきちんと向き合わなければまずいと思い、それなりに体育教師を突き放して見たりします。その中で、体育教師とかスポーツマンみたいなイメージが文化とか社会によって作られ、時代によって作られています。なぜ権威とか暴力的、保守的、怖いというようなネガティブな面が形成されたのか。体育教師がそれを全面否定できない部分も確かにあります。それはなぜか。それは個人のパーソナリティーで作ってきたわけではなく、実はそこにあるのは日本的なスポーツ集団・運動部集団で、体育の教師が再生産されてきた歴史がその原因のひとつとしてあると思います。もっとさかのぼり、明治時期に日本が外国からスポーツをどのように導入したのか、学校教育にスポーツをなぜどのように取り入れたのか、ナンバから普通の歩き方にしたことでも、近代的な日本をつくるという名目で体育をどのように導入し、そこで体育教師はどういう担い方をしたのか。一方で、日本ではかつてスポーツとはエリートがやっていたと思うのですが、そういった人たちが西欧からやってきたスポーツをどのようにとらえたのか。私に言わせると、日本的な教育的スポーツ観みたいなものがあり、スポーツは教育色を非常に強くしたような思いがあるのです。
 今、スポーツ界はかつてと違ってかなり変わってきたと私は思います。一方では、その体質を引きずっているところもたくさんあります。その中で日本的スポーツ観というのは、実はかつての日本の部活動によく見られたものですが、タテ系列の人間関係が全人格支配=服従関係、つまり不条理な先輩―後輩関係として、それを作用して働く構造が部活に多々にしてあったのです。これも体育の人間として恥ずかしいことですが、かつて大学の運動部では、1年生は奴隷、2年生は平民、3年生は貴族、4年生は神様だという言われ方をしていました。タテ社会の構造であり、そこでは1年生であれば何でも言うことを聞かなければならない奴隷だが、上級生になれば楽になれるというタテ社会のメカニズムに依存したゆがんだ楽しみが生まれ、スポーツそのものの楽しさは副次的なものへと変質させられてきたように思います。本来はスポーツが好きだというのが根底にあると思うのですが、それ以上にそういう作用がスポーツをする学生たちの中に作られていったのです。実はそういった支配・服従関係みたいなものが、運動部の中にある1つの集団を維持したり強化したりする構造として、伝統的にずっと引き継がれてきたように思います。その中で、体育の教師とは子どもに対して絶対的な立場でなくてはいけないというような考え方も、知らず知らずに学ばれ、上の者には逆らってはいけないという体質が、日本のスポーツ界にも体育の教師集団の中にも歴史的に作られてきたのではないでしょうか。先程言った体育教師のイメージとは、学生たちが知らず知らずのうちにそういった雰囲気も含めて学び取ってきたものです。そこに目を向けることは体育教師自身としてはつらい作業ですが、逆にそこをどう克服していくか、解決していくかは、子どもたちの見ているものが単に体育教師個人のパーソナリティーに対することではなく、もっと根深くて、歴史的・文化的に作られており、隠れたメッセージとして出てきているというところに目を向けない限り、なかなかできません。
 そのような例は新聞紙上でたくさん見られると思います。92年の朝日新聞には次のような投書がありました。「先日、ある体育大学で妙な光景に出合いました。向こうから1人の女子学生が歩いてきます。と、突然体を斜め横に向け、カニの横ばいのように歩きながら、一歩ごとに体を前に傾けます。一瞬何をしているのかわかりませんでしたが、すぐ気づきました。道端にしゃがみこんでおしゃべりをしている5〜6人の学生に、一人ずつあいさつをしていたのです。あいさつされた方はおしゃべりをしたままで、ちょっと顔を上げただけ。中学の『部活』でよくある『ぺこぺこ礼』です。上級生によるお辞儀の強制で、上級生がかたまってきたら、人数分だけ頭を下げるのです。大学生がやるとよけいに異様。『ぺこぺこ礼』は礼儀正しさとは異質なものだし、対等平等のスポーツとも相いれないものです。この大学生は、将来指導者になる人も多い。一考を促したい」と。まさにこのとおりで、こういったものがまだ残っているのです。このような学生が指導者になれば、そういったヒドゥン・メッセージをかもし出します。いくら丁寧に指導しても、一方ではそういった雰囲気などは、いろいろな行動や非言語コミュニケーションのかたちで学校の子どもたちに伝わり、ネガティブなイメージが作られてきているのではないかと思います。
 明治以降に社会や文化によって作られているもう1つの例として、日本のスポーツの代表みたいにも言われたりする高校野球があります。私も高校野球を見るのは好きですが、一方で高校野球は教育色があまりにも強いと思っているのです。しかし、そういったところはあまり気づかれていません。ベースボールとはもともとアメリカのスポーツです。大リーグでもいいのですが、ベースボールと高校野球を比較すると、先程加藤先生がフランスの例を挙げたように、当たり前のことだと思っていることが、実はグローバルにみればそうではないこともたくさんあります。
 最近では長髪もいますが、高校野球では多くは坊主頭です。でも、他の国の野球選手には坊主頭はほとんどいないし、なぜ坊主でなければいけないのかと疑問を抱きます。また、驚くことにプレイボールと言う前にみんなが整列して礼をします。“お願いします”といって向かい合って礼をするのは、ほかの国のベースボールではありません。いい悪いは別にして、礼をすることは野球そのものの規定にもベースボールの規定にもありません。
 つまり、高校野球はもともと非常に教育的に作られてきたし、教育色を強く持っているのです。それがいろいろなかたちでプラス面とマイナス面をかもし出しています。そういう意味では高校野球などは今メディアがそのイメージを戦略的に作っていると私は思うのです。高校野球とはベースボールや大リーグやプロ野球ではない、血と汗と涙の青春みたいなイメージが作られています。プレイが本当に好きならばプレイの質を問うべきだと思うのですが、そうではなく、あの潔さ、しつけのよさ、キビキビしているところなどについ美しさを感じてしまっているのです。それはそれで別に悪いという意味ではないのですが、それをスポーツという文化と考えると、はたしてなぜそういうことをしなければならないのだろうかということになります。つまり、高校野球というのは礼をして始めるものだと、野球とはそういうものだと知らず知らずのうちに思わされているのです。ちょっと斜に構えて突き放してみると、そこにいろいろなメッセージがあります。
 ほかの例としてジェンダー・バイアス、ジェンダー問題と絡めて言えば、おかしなものは、高校野球だけではなくて高校などの部活に存在する女子マネージャーです。女子マネージャーがいるのは、私自身も高校時代の部活では当たり前だと思ってやってきました。しかし、よく考えてみるとこれも世界で類を見ない不思議な役割なのです。女子マネージャーの存在は高校生では当たり前のようになっており、今高校1年生である私の息子も部活でサッカーをしていますが、女子マネージャーがいるかと聞くと、いるよと。いるのが不思議だと思わないかと言うと、全然思わないと。何をしているのかと聞くと、靴下を洗ったり掃除したり、選手のドリンクを作ったり、スコアをつけたりという役割をしているとさも当然のごとく話してくれます。
 もともと、ベースボールではマネージャーとはフィールドマネージャーであり、それは女子マネージャーみたいなものではなく、日本語に訳せば監督なのです。大リーグではマネージャーとは一般的にフィールドマネージャーですが、日本ではマネージャーというと部室を掃除したりして、女子がするようにとらえられています。例えばマネージャーと言った場合、本来はマネジメントをするという非常に重要な役割を担っているのです。部活の中に女子マネージャーがおり、一般的に家事的な仕事を担い、マスコット的に扱われています。また女の子もそれにあこがれるというような雰囲気があります。こうした状況を一方でメディアが作り出すというような変な循環があるのです。スポーツの部活にはそういうマネージャーがいて当たり前だと。本当にそうなのか。女子マネージャーがいるということは、実はスポーツをどういうふうに見るかということに非常に大きなかかわりがあり、女子マネージャーでも野球をしたければしてもいいじゃないかと思うのです。地方では入れるようになりましたが、甲子園では野球の規則で女子はベンチに入れないのです。
 このように、スポーツにおけるジェンダーに関しても、知らず知らずのうちに偏ったものの考え方が身についており、うちの息子でも当たり前と思っているのです。本当にそれが当たり前なのでしょうか。これをずっと追っていった論文があるのですが、男は男らしくプレイして、女の役割は優しく包み込みように裏方で仕事を支えることだというように、そこで性役割を知らず知らずのうちに身につけてしまう危険性があると言うことです。
 一方では、女子マネージャーの役割がすべてそうだとは思いませんが、きちんとゲームや練習を分析したり、いろいろな重要な仕事をしたりしている女子マネージャーがいることも僕は知っています。が、それは女子がやらなければならないのか、男子でもいいではないかという問題も当然はらんできます。それは、スポーツの中でも私たちが知らず知らずのうちに感じ取ってしまっている、当たり前としてしまっているものがいっぱいあるということの1つの例なのです。

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