学校におけるヒドゥン・カリキュラムの実際 
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体育教師のヒドゥン・メッセージ ―体育教師のイメージ―

【文化が作ってきたイメージ】

 それは、先程加藤先生が言われたように、文化が作ってきているという部分と重なる部分なのです。“ナンバ”という歩き方からの変化も、明治以降に体育の中で「気をつけ」、「前に習え」、「前へ進め」などと近代学校教育の中で教えられてきたことによると思います。私は体育の授業では学生に「気をつけ」などとはほとんど言ったことがないのですが、模擬授業で学生に体育の先生をさせると、「集まってください、気をつけ、礼」とみんなが言うのです。私が授業で1回もしていないのに学生がするので、なぜかと聞いたら、そんなことは意識したことがなかったと言うのです。実はこれも知らず知らずのうちに体育で教えられてきているのです。「気をつけ」と言うので、私が何に気をつけるのですかと言うと、学生はえっと驚くのです。そんなことは考えたこともないと。これも、まさに明治以降に学校教育の中に生み出されてきたものが戦後もずっと続いていると思うのですが、学生が知らず知らずのうちに学び取っている1つの例でしょう。いったい何のためにこれをしているのかをよくよく考えると、集まったときに気をつけしなくても、黒板の字が読め、私の話していることがきちんと聞ける姿勢を持っていればいいと言うのですが、学生に授業をさせれば「気をつけ」と言います。気をつけしているからといって、聞いているわけではないのですが。そういったものが当たり前のごとく学生の中に出てきていること自体、隠されて伝わってきているということで、そこに気づかせることは非常に大事なことだと思っています。
 そういったものも含めて、体育の教師のイメージがいくつか出てきていると思います。先程頭が筋肉でできているので“脳筋”と書いてありましたが、これも大学で体育やスポーツに関してどのぐらいの知識を持っているかという科学的な認識テストみたいなものをしたのです。その中に番外編として、例えば「体育教師は頭が筋肉でできているか」という項目にイエスと答える人が数名いました。たぶん痛烈な批判で書いてくれたのだと思います。まさか真面目に考えてはいないと思うのですが、そこでこの解答から筋肉と脳の話をするのです。僕の頭を割ったら本当に筋肉だろうか。あけて見せてあげたいと。皮肉を含みつつもそういうイメージは、おそらく知らず知らずに作られてきていると思います。
 県立大学の例で言いますと、僕の部屋に来るとまず学生がびっくりします。体育の先生なのにこんなに本があるというのが学生の言葉です。英語やドイツ語などの洋書もあるので、体育の教師なのに英語の本も読むのですかと。要するに、体育教師と英語やドイツ語の本を読むということが学生にとってはあまりにもかけ離れたイメージで、学生は別に悪気があって言っているわけではないのですが、そういうイメージを持ってきているのです。
 また、例えば体育の教師である私がここで今からドイツ語で話し始めたら、おそらく皆さんは体育の教師が外国語をあんなに話せるのかと思われるのではないでしょうか。体育教師である自分自身も、中学・高校時代には体育の先生に対してはそういうイメージを持っていましたし、いろいろな勉強をする中でそうではないと感じながら、一方でそんな教師であってはならないという思いで今体育の教師をしています。そのようなイメージはいろいろなかたちで作られてきており、社会的なイメージを形成しているということです。

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