その中の1つにあることを、デモンストレーションで実際にやってみましょう。どなたかに出てきていただいて、こちらを向いて立っていただけますか。(会場参加者の実演)もう少し近づいてください。今もう少し近づいてくださいと言いましたら、勝手にちゃんと距離を決めているでしょう。なぜそこで止まったのですか。
(参加者) マイクがこちらへ来る場合、距離的にこのぐらいならいいかと思って・・・。
(加藤) そうですか。ちょっと・・・。(加藤氏が参加者に接近)最初から体の動き全体をよく観察していれば、近づきすぎると嫌がっていることがわかります。上体がそり気味で、逃げているのです。普通はそうでしょう。あまり近づくと失礼なのでしませんが、実際にはいろいろなことが起こります。
この方とは初対面ですが、今度はそちらから、僕の話を聞くときに一番自然な距離に移ってください。(参加者が移動)これぐらいだと大体60センチですね。普通初対面では、今は横に立ってくれましたが、真正面で目と目を合わせると60センチではちょっとしんどい気も・・・。これぐらい離れなければお互いにしんどいでしょう。こういうものをパーソナルスペースといいますが、男性と女性では距離が違い、男性の方が少し広いので、僕はしんどいのです。女性のパーソナルスペースの方が狭く、そういう点では女性にとって楽な距離と男性にとって楽な距離は違います。今は80センチぐらいですが、僕はちょっとしんどいなと感じます。
ホールが隠れた次元で明らかにした1つは、パーソナルスペースという問題で、個人空間と訳しています。ホールはコミュニケーションの隠れた次元としていろいろな次元を抽出していますが、一番有名なのがパーソナルスペースなのです。
パーソナルスペースとは今簡単にデモンストレーションしたようなことを指すのですが、人と人とがコミュニケーションするときに、人間は他者と距離を取ります。その距離の取り方が、実に微妙なコミュニケーションの1つの道具になっているのです。例えば若い人たちが友達になって、その友達同士が親しさの表現として1メートルの距離をいつも取るようなつきあい方をしていたら、これは私たちが友達だということの他者への自己開示にもなります。私たちはパーソナルスペースをどのように使っているかというと、相手に対する自分の気持ちの表現、つまりAという人がBという人に対して自己を表現する手段であると同時に、AとBの関係が第三者のCによってどのように見られるかということに対する自己表現でもあるのです。
自己表現には、Aという人がBという人に対しての自己表現があります。例えば私が今立ってくださった方に馴れ馴れしく近づいたとします。そうすると、近づいたこと自体はその方に対する親しみの表現でもあると同時に、それを見ていたほかの方々に、あいつらは前から知っているのかというようなことを予想させる表現でもあるのです。これを心理学的な用語では「関係の自己開示」といいます。私がBさんに対してどのような感情を持っているかを、第三者に表現するということです。人間は常に、意識しないで、関係を第三者に自己開示しているのです。
関係の自己開示には、私たちは関係ありませんという自己開示ももちろんあります。たまたま満員の喫茶店で赤の他人と同席したときには、前の人が食べているものと同じものはたぶん注文しません。あの2人は一緒だと思われたくないと思えば、違うものを注文します。そこに何か図柄ができてはまずいからです。喫茶店のほかの人たちもみんな赤の他人なのに、それでも人間は意外にそういうことを気にするのです。
あるいは歩いているときに、前を歩いている人とたまたまテンポがぴったり合ってしまうことがあります。それに気づいたときにはどうするかというと、急に歩き方を緩めたり早めたりします。この人と一緒だと思われたくないからです。町の中ではほかの人たちもみんな赤の他人なので、そんなことは気にする必要もないのですが、人間はやはりそういうことを気にしているのです。
つまり、あなたに対して私がどのような感情を持っているかということを、あなたに対して直接的に表現すると同時に第三者にも表現するということを、ごく自然なかたちで意識もしないで、日常的にやっているのです。関係の自己開示とはホールの言葉ではなく、これはもっと後になってから出てきたノン・バーバル・コミュニケーション、非言語コミュニケーションの中の、聞いてみれば当たり前のことである1つの発見なのですが、ホールは隠れた次元といったときにこういうことを指しているのです。隠れた次元というけれども、全然隠れていないのです。知っていることなのです。みんなが知っており、見えているが意識に上らなかったり、そのことを意義のあることとして考えたりしなかったということです。
実はパーソナルスペースに関する研究は結構たくさんあります。会話の大きさからみた心理的距離ということで、我々が他者との距離をどのように使い分けているかということを、至近距離、個人距離、社会的距離、公衆距離という4つに、ホールが大きく分類しています。
例えば大きな講義室などは、教壇と学生たちが座る一番前の机をどれぐらい離すかということは、設計をする人もほとんど無意識に、あまり考えずに造っています。ところが、結構意味があるのです。この会場の状況を考えてみてもおもしろいのですが、ばかばかしいようなことを一々やってみます。(教壇と机との距離を巻き尺ではかっている?)今、約3メートルありますが、これはホールの距離では社会的距離の遠方位相にあたります。
では、なぜ大抵は一番前に座らないのでしょうか。たぶん一番前では個人距離の範囲内か、そういうことにも多少配慮して設計されていると思うのですが、1メートル50センチぐらいなら個人距離と社会的距離の間ぐらいで、要するに個人的なコミュニケーションを取るのにふさわしい距離に近くなってしまうからだと思います。それは、こういう場で私たちがある関係をつくるのにふさわしくない距離なのです。学生が一番前に座らないというのはもっといろいろな理由があるとは思いますが、そういうことも1つの理由として働いているのも事実なのです。
また、たまたま去年の新聞に載っていた写真がおもしろかったのでお見せしますが、プーチンとクリントンが共同声明に調印した後で話し合っているところです。おでことおでこがほとんどくっつくように話をしている写真に、ちょっと違和感があるでしょう。彼らは別に特別な友達関係ではなく、国と国を代表する人たちですが、こういう距離になるということには僕はすごく違和感があったのです。
パーソナルスペースは文化によっても随分と違います。我々は距離の使い方をやはり我々の文化の中で学んでおり、知らず知らずのうちに学んで自分のものとしているのです。もちろん学校教育の中ではなく、日常生活の中で子どもはもっと自然に学んでいきます。実際のところパーソナルスペースの(テープ途切れ)研究もあり、驚くことに子どもは5歳、6歳でも距離を使います。大人ほど微妙ではありませんが、使っています。小学校になれば、距離差をはっきり使っています。
例えばこんな研究があります。対人距離とか個人空間は実際にはなかなか測定できないので、投影法的な手法を用いるのです。それは、男の子の友達や女の子の友達、女性の先生、男性の先生、父親、母親などの対象人物の絵が回答用紙に張られていて、自分を示す人物画像をそこに張りつけるという実験です。普通に話をしている場面を再現するということで、子どもに自分の立つ位置をシールで調査用紙に張りつけさせるという実験がされています。こういう実験であれば小学校1年生から6年生まで簡単にできるので、小学生の距離の使い方を調べてみると、1年生からちゃんと使い分けているのです。
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例えば小学校1〜2年生の女の子では、子どもと大人で距離を使い分けていることがわかります。おもしろいことに、女の子が5〜6年生になると、今度は固まり・クラスターの中身が変わってくるのです。第1因子が異性の友人と父親で、第2因子が同性であり、異性の先生だけが例外ですが、性による距離の使い分けが非常に顕著になってくることがわかります。これは、男の子の3〜4年生や女の子の3〜4年生の方がもっとはっきりしています。つまり、女の子の1〜2年生は年齢で距離を使い分けており、3〜4年生になると性別で使い分けているということがこれでわかります。
そのような距離の使い分け方があること、距離を1つのコミュニケーションの手段として、意識しないで非常に早くから使っていること、その使い方自体が発達的に変化するということがわかるのです。