心理学からみた教育の隠れた次元 
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日本人の歩き方から


 具体的な例を挙げて、お話ししたいと思います。学校教育は子どもにいろいろなことを学ばせ、子どもはその中で大人になっていきます。学校教育を通して、社会の一人前として必要とされる能力を獲得していくわけですが、その獲得していく能力や行動様式の中にはあまりにも当たり前のものがあるということに、私たちは案外気づいていないと思います。
 どういうことかというと、歩き方です。これは丸山先生にお話ししていただいた方がいいかもしれませんが、歩き方もやはり学ぶのです。知らず知らずのうちに学校教育の中で学ばされるのです。もっと言えば、日本人の歩き方は学校教育によってこの100年間でつくりかえられてしまった、という主張をする人もいます。
 皆さんはどうやって歩くでしょうか。つまらない問いですが、どうやって歩くかと聞かれるまでも歩いているわけです。でも、皆さんの多くの歩き方は100年前の日本人の歩き方とは違っています。100年前の日本人はどんな歩き方だったのか。普通に歩きますと、左足が出たときに右手が出て、手と足が交互になります。
 しかし、お見せできないのが残念ですが、とてもよく作られている時代劇ではかつての日本人の歩き方をちゃんと再現しています。黒澤明の「七人の侍」で、侍や農民がどう歩いているかをじっくり見てください。今の私たちとは違う歩き方をしています。日本人の古来の歩き方はナンバだったと言われています。ナンバとは、右足と同時に右手が出て、左足と同時に左手が出るような歩き方なのですが、すり足で歩くという言い方は本当は不正確です。
 よく考えてみたら、例えば相撲の押しの態勢はどういうかたちをとりますか。すり足ですね。それで、腰を落として、左足と左手、右足と右手が同時に動いて前へ進みます。歌舞伎役者が花道から出てくるときはどうやって動いていますか。花道を走ってくるというのは、本当には走らないのですが、おっとっとっとというようなかたちで、左足と左手が同時に前につんのめるようなかたちで、走って花道を出てきたような動き方をするのです。
 今のは1つの事例ですが、実際に観察しようと思えば我々は今でも観察でき、そのような動きは伝統芸能などにちゃんと残っています。歩くことは人間の基本ですが、歩くという行為は人間の体の自然から出てきているわけではなく、やはり生活の中でつくられるのです。もっと言えば、それは生活プラス学校教育の中でつくられますが、多くの人はそんな意識はほとんどしていないと思います。
 なぜこういう話をしているのか。たまたま僕は体のことにとても関心があり、次に登場される丸山先生などに比べると笑ってしまうほど運動神経は鈍いのですが、だからこそ体のことに結構興味があるのです。体とは何だろうかということを心理学的に考えるのは、ある意味では私の生涯のテーマだと思うのですが、体に関する本をいろいろ読んだりしています。たまたま今のようなことを前から考えてもいたし、実際につい最近読んだ本にもなるほどというようなことが書いてありました。それは、かつては確かにすり足で動いていたのですが、今でも日本人はかなりすり足で動いているということです。
 そこに中国の*トウ先生*がおられますが、*トウ先生*の歩き方と僕の歩き方は微妙に違います。*トウ先生*に歩いてくださいと言うのは失礼なのですが、もしよかったら普通に歩いてください。(歩く実演)何か気づいたことはありますか。
 実は、私は文化人類学の先生に教わったことがあります。これもフランスでの体験ですが、世界中から観光客が美術館に来ています。日本人の観光客も多いし、最近では中国や韓国の観光客もフランスの美術館にたくさん来るようになりました。その美術館の2階にあるテラスから下をのぞいていると、フランス人の文化人類学の先生が、日本人か中国人か韓国人か今から当てっこしようと言うのです。かつては服装でかなりわかったのですが、最近は服装でもあまりわからなくなってきました。でも、彼は確信を持って言いました、彼は中国、あのおばさんは日本だと。
 私などは見ていても全然わからないと、コツを教えようかと言われ、歩き方を見ていろと。日本人はすり足というかずり足というか、要するに絶対に足の裏が完全には地面から離れないというのです。どこかがくっついており、離れてもほんのわずかの隙間があるだけだと。中国の人ははっきり離れるというのですが、それを*トウ先生*に聞いても、あまりに日常のことなので意識していないでしょう。極端な表現の仕方をすると、中国の人の方が膝の曲がりが大きくて、ぺたんぺたんという歩き方に近い。日本の人はずるずるという歩き方に近い。そういう観点で見ていると、最初はよくわからないが、だんだん違いが見えてくる。歩くということにも文化があり、それは人間の生理的な機構の自然な反映ではない。それ自体が文化の中でつくられるし、一たん文化の中で長い時間をかけてつくられてきたものを、教育によって変えることすらできると思います。
 例えば日本の踊りを考えてみればいいのです。踊りとは舞踊とよく言ったもので、舞う方と踊る方があるのです。舞う方はすり足でぐるぐる回転し、踊る方は飛んだりはねたりします。飛んだりはねたりするのは西洋のバレエが典型的です。つま先で立つなど、地面との接点を極力最少にしようとするような、できるだけ地上から離れることに必死になっているような踊りです。ところが、日本の舞いは、腰を落としてすり足で動き、主に上半身で表現するという踊りです。このように、体の動かし方自体の中に文化があるということが、例としてわかっていただけたと思います。
 実はある本によると、まさに日本人の歩き方の基本はこの100年間で、とりわけ明治の数十年で大きく変えられたと言っている人がいます。一人ではなく、相当数の文化人類学者あるいは身体論をやっている研究者が、そういう点では共通の認識にかなり達していると考えてもいいと思います。学校の運動会では行進の練習などでよくやっていますが、手を大きく振って、足を高く上げて、前を向いてしっかり歩きましょうと言っています。また、朝礼で並ぶ練習や「右向け右」もします。例えば朝礼で並ぶ、歩く、ほかの子どもとテンポを合わせて歩くときには手をしっかり振って歩く等々のことを、それこそ小学校1年生や幼稚園からずっとさせられてきているのです。それによって、現在の私自身あるいは皆さん自身の歩き方が、自分の自然になっているわけです。
 これを詮索すると、歴史的にはいろいろなおもしろいことがあります。なぜ日本の学校教育の中で運動会が導入されたのか。なぜ整列行進などが一定の方式に基づいて行われるようになったのか。それ自体はたぶん体育史の重要なテーマの1つだと思うのですが、そこまで踏み込まず、要するに我々が当たり前だと思っている行為にあらためて光をあててみると、そこには意外なことが見えてくるということが言いたいのです。

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