心理学からみた教育の隠れた次元 
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日本の幼稚園のビデオから


 最初に、私自身の個人的な経験からお話をさせていただきます。今からちょうど5年前の1996年9月に、私はフランス国立教育研究所が主催する「世界の幼児教育セミナー」に招かれ、そこで日本の幼児教育についての講演を行いました。そのときに、大変おもしろいことを経験したのです。
 私が話したのは特に日本の幼児教育(就学前教育)について、とりわけ小学校に入る2年前ぐらいの4〜6歳というような年齢の子どもたちの問題です。日本において、そういう子どもたちがどのような教育の対象となっているのか。日本の就学前教育とは制度的にどのように保障され、それは歴史的にどのように変わってきたのか。現状はどうなっているのか。例えば、同一年齢人口の中で何%ぐらいの子どもが幼稚園に行っているのか。日本の場合には保育所と幼稚園という2元的なシステムになっているので、どれぐらいの子どもが保育所に通い、どれぐらいの子どもが幼稚園に行き、修園率は年齢とともにどう変わってきているのか。歴史的にもどう変わってきているのか。日本の就学前教育をめぐって今どんな問題があるのか等々、全部で2時間半ほど話しました。
 それ自体は、外国の人にとっては初めて聞く話で、私たちが考えもしなかったような点でおもしろかったかもしれませんが、言ってみれば制度の輪郭をなぞっているような話なのです。そこで、日本の就学前教育の現実をもう少しビビッドに理解してもらえるように、実は私が通っていた日本のある幼稚園の1年間を、ダイジェストにして作られたビデオを見せたのです。それは大変好評でした。私が講演の中で話さなかったこと、私自身もあまり重要だとは思っていなかったことを、フランスの幼児教育の専門家たちがおもしろがってくれたのです。おもしろがるだけではなく、びっくりしてくれました。
 私が気づいたのは、日本では入園式と卒園式があるということに彼らが驚いているということです。我々から言えば、フランスにはないのかと驚いてしまいますね。卒園式が映っているところでは特にびっくりされました。大学の附属幼稚園の1年間であり、最後に卒園式が行われますが、整然と並んでいる子どもたち一人一人の名前が呼び上げられて、修了証書をもらうのです。たぶん日本であればどこの園でも1週間前ぐらいから練習をしますが、当日は父兄が来て、式が滞りなく行われたということが、この子たちが4月からは小学校に行くのだという心構えを固め、親子ともども1つの区切りになる感覚が持てる大事な機会だと思うのです。特別な卒園式でも何でもなく、日本全国津々浦々のどこの幼稚園でも行われているような卒園式のビデオでしたが、とにかくそれにびっくりしてくれました。つまり、そういう式があることと同時に、その式の中で6歳の子どもたちが比較的整然と、ある種の集団行動をとっていることにまず驚いてくれたのです。
 振り返ってみると、そのビデオは日本の幼稚園における1年間のダイジェストなので、どうしても行事中心になります。入園式があり、夏のお泊まり保育などという行事があり、運動会や学芸会、授業参観、遠足という行事の連なりなのです。私は20年ぐらい前にフランスに2年間いたことがあり、そのときに実験のためフランスの幼稚園に通っていましたので、フランスの幼稚園の内部事情を多少知っていますが、日本の幼稚園のビデオを見ながら私自身がとても奇妙な感覚になってきました。フランスの幼稚園のことをいろいろ思い出し、つき合わせてよくよく考えてみると、フランスにはないものばかりなのです。
 入園式、卒園式がないと言いましたが、運動会もありません。第一、運動会をするような校庭が、広い遊び場がないのです。遠足もありません。もちろん施設見学はありますし、夏休みにいくつかの園で希望する家庭の子どもだけを募って1カ月の集団生活をする、コロニー・ド・バカンスというプログラムはあります。ただ、これは全員でやるわけではなく、あくまでも親が希望すればということで、むしろ長い夏休み中に親たちがバカンスに行きたいがために子どもを預けたり、事情があって一緒に過ごせない家庭の子どもたちを預けたりすることが普通の状態です。
 やはり同じ幼稚園とか学校といっても、小学校以降の学校という限りは、我々は自分が受けてきた学校教育の経験を通して当然あるイメージを持っているわけですが、そういうイメージが普遍的なものだろうと思い込んでいる節がかなりあるのです。学校では授業が行われ、先生が前に立って、対面して子どもが座っており、教壇や黒板、時間割があり、時間割は40〜50分でお昼には給食があるというような一連の、1日の時間の区切り方とか過ごし方のイメージ。あるいは学校には教室があって、運動場や体育館があるというように、一定の物理的な要件を備えた場としてのイメージを、我々は何の疑いもなく当然のこととして受け取っており、そういうところが学校だと思っているのです。
 しかし、例えば日本の小学校や幼稚園のことを考えてもいいのですが、今のように我々が1つの共通のイメージとして持っているような学校という場自体が、歴史的につくられたもので、それもある文化的なバイアスによってつくられたものです。文化的なバイアスというのは、要するにほかの文化の中であれば違った常識に基づいて、違った学校の形態あるいはシステム、時間割、カリキュラム等々がつくられるということです。その中には、外から見てすぐにはっきりとわかるものが確かにたくさんあります。例えばカリキュラムとしては何を教えているか、どれだけの時間を使っているかということは簡単に比較ができるのです。算数では1週間に何時間使っているかというようなことは、実際に国際比較したりします。日本の理科教育が危機に瀕しているというようなことが話題になると、算数や理科の時間が国際比較して少ないのではないかという心配の声がすぐに挙がります。
 そのように目に見えるかたちで比較できるものは、実はごく一部であると言えば言い過ぎかもしれませんが、可視的に比較できるものばかりではないのです。比較できないものがあり、比較しようとすらしないで、あたかも私たちが当然のこととして受け取っているような、それが実際には子どもが育つうえでとても重要な役割を果たしているような、子どもを育てる場が持っているという隠れた仕組み・隠れたかかわりがあるのです。
 そういうことを考えてみる必要があるのではないか。これは記憶の隠れた次元ということで、公開講座でたまたま取り上げることになったのですが、私たち3人の教員が日本でとりわけ先進的に考えているという意味ではなく、そういった問題が実は重要であるということが、最近ではあちこちで少しずつ指摘されるようになってきています。
 ただ、そういう問題の重要性を声高に論じたり主張したりする人たちは、たぶん多数派ではありません。まだ、ごく一部にとどまっているだろうと思います。そういう意味で、ぜひ、この公開講座のお話がそういった問題に目を向けるきっかけになればいいと考えています。
 先程卒園式のビデオにフランス人が驚いてくれたと言いましたが、日本の学校ではなぜ運動会があるのかということは、考えてみたら先生や父兄という大人はたぶん問わないと思うのです。子どもは問うかもしれません。運動会の嫌いな子もいますから。「どうして運動会があるの?」というのは、子どもの問いとしては結構あるのかもしれませんが、そういう問いを大人たちが発することはほとんどないでしょう。まして卒業式や入学式がなぜあるのかという問いも、今までだったら教育の問いとしては成り立ちようがなかったと言っていいかもしれません。あまりに当たり前すぎて、自明すぎて、そういう問いを発すること自体が非常識であったり、不真面目であるという烙印を押されたりするおそれすらあったのです。
 でも、実際には日本の学校教育全体のことを考えると、例えば個々の行事が持っている意味には、あまり意識的に育てているのではない何かを育てているところが結構あるのです。さまざまな行事によって子どもの中に確実に育てられているものがたぶんあり、悪い言い方をすれば、知らず知らずのうちに子どもがある鋳型の中にはめ込まれていく、1つのきっかけになっている行事群というものが確かにあるのです。
 そういうことをやめろということではなく、我々はそういうこともう少し意識化する必要があるのではないかということです。当たり前の教育的営みの持つ、ネガティブな意味もポジティブな意味も含めて、それに対してもう少しセンシティブになり、もう少し意識化して、我々の教育的な営みの全体を自覚的に見直す必要があるのではないかということが、ここで私たちがこの問題を取り上げることの趣旨です。

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