![]() |
これまでの資料に明らかなように、この制度は学校と地域などとの教育連携は除外しており、もっぱら校長の行う学校運営に対する助言等にその役割を認め、そこに「参画」の意義を限定している。 もちろん「校長の推薦に基づいて教育委員会が委嘱する」委員に、父母や地域住民が含まれることは繰り返し語られている。しかし、この制度は保護者等が学校の「意思形成過程に加わって、・・・自らの意思を実現する」という共同決定ないし、合議の機関としては想定されていないという点で特徴的である。(日下部嬉代子氏の質問に対する御手洗康政府委員答弁、参議院文教・科学委員会議録2,1999.3.9)この点、次ぎに見る欧米や日本の学校協議会における父母住民の学校づくり・意思決定(実質的なものを含む)過程への参加とは著しく異なっている。さらに、父母住民の意向を反映した学校運営がその趣旨であったが、PTA関係者がその委員の筆頭を占めている事実があり、父母住民の意見を求めると言ってもその代表性は明確ではない。国会審議でも、イギリスの学校理事会における保護者/地域代表制が指摘され、日本の制度では「校長に都合のよい人が指名されないか」との疑問が出されていた。(山元健氏の発言、衆議院文教委員会議録7号、2000.3.15) これらの「意思形成過程」参加及び委員の「代表性」に関しては、今後の改善・改革が求められる重要な論点となろう。
A 教職員の学校運営への参加
この制度では父母地域住民の意向を反映した学校運営という点から、いわば学校外の意向が重視されるところに特徴があり、これを通ずる学校運営上の教職員の位置づけに関しては、規定上委員から除外されているところに明らかである。その理由は「学校の自主性、自律性の確立」が目指されてはいるが、そのため校長が有する学校運営権・職員監督権を前提として、「校長の責任のもとに教職員が一致協力して学校運営を行う」ものとされているからにほかならない。(参照。有馬文相答弁、参議院行財政改革・税制等に関する特別委員会議録、9号、1999.7.2)
元来、学校の自主性・自律性とは、一方では子どもの教育を直接になう教師やその関連・支援業務を担う職員の担う職務の専門性に裏付けられてはじめて成り立つはずで、その実現を目指すならば、教職員の学校運営参加がもっと語られてよい。学校の自治的あり方(autonomy)に連なっている。この学校運営の自治的あり方(あるいは民主的、効率的あり方)という点からは、さしあたり校長のリーダーシップ、及び職員会議の位置づけが問題となろう。前者については、十分教育専門性に裏付けられ、優れているがゆえに実効性を有するような指導と助言のあり方が追及されてよい。後者に関しては、学校評議員の規定と時を同じくして、学校には「校長の職務の円滑な執行に資するため、職員会議を置くことができる。」(学校教育法施行規則23条の2)と定められたことにかかわる。確かに法令上の根拠は明確ではなかったにせよ、学校においては教育慣習法上の存在として、職員会議はその自治的運営上きわめて重要な役割を担ってきたことはいうまでもない。従って、たとえ教委規則で「校長の補助機関」(東京都)とされたとしても、学校の意思決定過程で校長が教職員の教育専門的判断を基礎にせざるを得ないという意味では、職員会議がなお教職員の学校運営参加の有力な機会であることは間違いない。
B 子どもの意見表明権と学校運営参加
開かれた学校の目的は、一人ひとりの子どものもてる能力を何一つだいなしにすることなく開花させることができる特色ある学校づくりにあった。学校と家庭・地域とを架橋しようとする学校評議員の制度は、この学校の主体である子どもたちをどのように扱おうとしているのだろうか。学校管理規則などで子どもについて規定されたものが、後の例以外にあれば是非知りたいところである。じつは94年に日本も158番目の国として批准した(国内法と同じ効力を有する)、国連「子どもの権利条約」では、子どもの意見表明権が謳われており(12条)、親は子の権利行使に関する指導・助言権を有することが書かれている。(第5条)しかし、このことはまだ大多数の大人と子どもに十分知らされているとはいえないが、日本の政府や国会議員たちの間では、すでに次のような議論がなされたことは注目すべきである。
◆ 国会論議の中で、「権利主体としての子供という考えに立てば、・・・学校評議員制度、こういうものに当然子供を参加させるべきである」(肥田美代子氏)との質問に、以上に見るように、学校評議員の制度の特徴とともにその問題点もいくらか明らかになった。その解決のためにも、これまでの学校と家庭・地域社会を架橋する、とりわけ父母住民の教育意思を学校運営に反映しょうとする様々な経験から学ぶべきことは何であろうか、考えてみよう。
◆ 太田総務庁長官(当時)は「人間というのは小学校の高学年ぐらいになれば人格はほぼ完成していると思いますし、そしてまた、訓練さえすれば自分の意思表示はできると思います。しかも、そういうことを主張し、あるいはそれが上の世代から反発をされ、またそれに対して反発をするという風なやりとりがある中で、世代を超えて切磋琢磨をすることが強靱な精神を子供たちの中にも育てるだろうし、また、それなりに尊重されていくと言うことになるのではないか・・・。子供自身の発言の機会を、あるいは意思表示をしてもらう機会を例えばこの委員会で持たれてもそれはいいのではないか」と。
有馬文相(当時)も「子供たち・・・がどんどん自分の意見を言えるようになることは必要だ」といい、学校評議員が「児童生徒の意見を聞いてみると言うことは必要であろう」と答弁している。(衆議院青少年問題に関する特別委員会議録、8,1999.8.5)