いろいろな人権 『ハンセン病と人権』 
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ハンセン病と人権

(6)無らい県運動

 ア 愛知県が発祥
  立法化された隔離政策を効率的に推し進めて行くには、国民の支持が不可欠でした。一度、強制隔離に抵抗の火が点けば、非人道的な政策に反対する声は確実に広がっていくことが予想でき、そうならないためにも、肯定する世論を形成する必要がありました。そこで、1929年に愛知から始まったと言われている、ある運動に着目し強力に推進していったのが「無らい県運動」です。文字通りハンセン病患者のいない県にしようというスローガンを唱え、官民一体となった患者摘発や療養所への収容を行うもので、1931年に癩予防法が公布された後、都道府県単位で競わせるように全国に広めていきました。その際、隔離を容認する世論の高まりを意図して、「ハンセン病は強力な感染症で、唯一の予防は隔離だけである。」と訴えながら、恐怖心を煽ることを先行させたのです。そのため、無癩県運動の論理は、病気の予防から患者の撲滅へと言葉を変え、民族浄化という国家的使命感を帯びた運動へと強化され、隔離を肯定する世論を強固にしていったのです。

 イ 共存関係の崩壊
無らい県運動  では、強制隔離を支持し、肯定する世論の下で、どのような取り組みがなされたのでしょうか?県は民間の救済団体や宗教組織と協力して、患者収容を勧める宣伝・啓発活動を大々的に行いました。その中で、療養所はあたかも「患者にとっての楽園」であるかのように宣伝して、過酷な隔離政策を覆い隠す虚構のイメージ戦略を展開したり、民族浄化論を基調とする国家的使命感に訴えながら、患者や家族への自覚を促して、放浪患者や在宅患者が自発的に収容に応じるように仕向けたのです。一方で、無らい県運動の目的は、全ての患者を療養所に収容させることにあり、そのためには、患者の所在を明らかにする必要がありました。そこで、「患者の存在を知った者は、無記名で投書せよ」と隣人による患者の密告を奨励したのです。また、収容に応じるまで執拗に繰り返される消毒や、収容に応じなければ強制的に一番遠い離島の療養所へ送致するとして脅したケースもありました。戦後も継続し強化された無らい県運動の進展が、ハンセン病は感染力の強いとても恐ろしい病気という誤った認識を国民に広め、患者や家族を一家心中に追いやったり、患者が住んでいた集落を強制収用するなど、近世まで続いた共存関係を完全に崩壊させ、患者から隔離収容以外に生きる術を奪っていったのです。この、無らい県運動が昭和40年代まで、強力にすすめられたのです。


(7)療養所での生活・医療

療養所での生活・医療  退所規定の無い予防法に基づく収容施設としての療養所は、逃走を防ぐためにも社会から遮断された辺境の地や離島などに建てられました。その遠い療養所への道のりも、執拗に消毒される姿を人目にさらされながら、また「お召し列車」という一般の客車と区別された車両に乗せられるなどして、意図的に怖い病気であるという偏見を助長することに利用されました。一方、患者やその家族には療養所に入所すれば人目を気にすることなく、充実した医療の下で治療に専念できるとして収容に応じさせていたのです。こうして社会での生活全てを奪われた患者を待っていたのは、定員を大きく超過する収容により職員・医師が不足し、最低限の衣食住すらままならない療養所での様々な作業であり、軽症の患者が重症者の看護や介助を行い、農耕や洗濯、所内の土木工事にいたるまで、施設職員の強権的な監督体制の下で強要されたのです。療養するはずの地で満足な治療を受けられず、過酷な労働と不十分な食糧事情、12畳に8人が雑居する療養所での生活環境が心身を疲弊させ、病状を悪化させていきました。こうした状況において当局は、患者の反発・逃亡を抑えるために、懲罰規定や特別病室という名の重監房を設けるなど、医療や福祉を充実させることよりも、療養所の秩序維持、絶対隔離の保持を最優先させていったのです。
 療養所での医療は、プロミンによる薬物療法が1949年頃から全国で行われるまで大風子油による治療が主でしたが、世界では経口薬であるダブソンの登場によって、ハンセン病治療は外来を中心とした一般医療へと統合されていました。しかし、日本の絶対・終生隔離政策の下では、ハンセン病医療そのものが、他の一般医療から隔離されてしまい、先進の医療から遅れていくことになりました。また、重症患者を軽症患者が看護することで化膿菌に繰り返し感染したり、過酷な患者作業が各種の疾患を誘発するなど、ハンセン病以外の病気で命を落とす患者が多かったのです。更に、療養所では、不妊手術である断種や人工妊娠中絶が患者に対し行われました。正に、患者の人権は完全に無かったと言っても過言ではありません。



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