いろいろな人権 『ハンセン病と人権』 
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ハンセン病と人権

(3)ハンセン病治療薬

 感染・発症する力や毒性が弱いとはいえ、病気に罹った者にとって何より待ち望んだのは治療薬の開発でしたが、らい菌が1873年に発見されてから近年まで特効薬は生まれませんでした。それは、菌を人工的に培養できなかったからなのです。人工培養ができなかったため、実験や研究が進まなかったのです。唯一、大風子の種子から取れる油を患部へ注入する療法が行われてはいましたが、その効用には人によって格差があり、再発も多く見られました。こうした中で、ハンセン病治療薬として、1943年になってから、アメリカで「プロミン」という薬の有効性が証明されたのです。このプロミンは当初静脈注射による投与のみでしたが、その後の改良によってDDS(ダブソン)という錠剤となって経口投与が可能となり、1950年代世界的に普及していきました。その後もリファンピシン、クロファジミンと化学療法が進み、1980年には世界保健機構(WHO)が、これら3つの薬を用いたMDT(多剤併用経口)療法を確立、全世界へ推奨しました。それにより卓越した治療効果、再発率の低さ、治療期間の短縮が図られ、ハンセン病の治療法は確立し、「ハンセン病が治る時代」が到来したのです。

(4)ハンセン病の歴史

ア 古代〜近世
ハンセン病の歴史   次に、ハンセン病の歴史について考えてみましょう。歴史を遡ると、古くは「日本書紀」「今昔物語集」等にハンセン病に関連する記述があり、歴史の浅い病気ではないことがわかります。中世の史料からは、特有の病状故に罰によってかかる病気とされていました。近世になると、家系的な経緯で病気が広がる遺伝病として一般化されていくようになるのです。これは、江戸になって政治・経済が安定し、生活水準を高め流行が終息に向かう中で、家族性発病が目立つようになったことと、家という枠組みが重視される幕府の施策が重なったためだと言われています。また、17世紀後半の医学書からも食毒や風土等諸説の中心には、血縁者間に伝わる病気であるとの考えがあったことがわかっていて、顕微鏡の無い時代、疫学が発達を遂げる以前のハンセン病は、忌まわしい不治の病として、「業病」や「天刑病」、「遺伝病」などと呼ばれたのです。それにより、社会と距離を置いた生活を余儀なくされながらも、一方では容易に感染、発症することの無い病気とされ、巡礼する者や寺社仏閣の傍らで生活する者、湯治治療を行う者など各々の在りように応じた生活を送っていたことになります。


イ 近代
ハンセン病の歴史  では、近代日本のハンセン病はどのような状況だったのでしょうか?明治期の文芸史料からは遺伝説が広く普及していたことがわかっています。そのことで、患者の中には、自らの存在が結婚忌避等で家族に迷惑を及ぼすとして、家出して放浪する者も数多くいました。そして、急速な技術の進歩が、世界中で病気への科学的理解を深めていく中でも、日本はコレラなどの急性感染症の対応に追われハンセン病患者は放置されていたのです。しかし、戦争で一等国の仲間入りを果たしたあと、国がハンセン病患者の隔離に踏み切るにあたり二つの契機を迎えることになります。その一つが、欧米諸国間との条約改正によって内地雑居が開始され、放浪する患者の姿を日本に居住する欧米人に見られることを国家の恥と考えるようになったことであり、もう一つが、1897年ベルリンで開催された万国癩学会で、ハンセン病が感染症であり、予防策として隔離が有効だと確認されたことが理由とされています。当時、世界の文明国と言われる国々でハンセン病は治まりつつあり、植民地なみの患者が日本にいることは国辱以外なにものでもなかったと考えられたのです。


(5)隔離政策の変遷

ア 戦前
隔離政策の変遷  こうして、ハンセン病予防とその患者を取り締まるのは、国家の面目という視点から何らかの対策が急務とされ、先ずは放浪する患者の救済として隔離を進め、段階的に強化してゆき、最終的には絶対隔離を実現していくという道を歩んでいくのです。こういう経緯をたどり生まれた法律が「癩予防ニ関スル件」であり、収容対象を救護者のいない放浪する患者とし、医師による収容機関への届出の義務化や公立療養所の設置が定められ、施行されたのです。これが、後に90年もの長きに及ぶ強制隔離政策のはじまりとなるのです。この法律では、放浪する患者のうち扶養義務者のいない場合に限り隔離収容するとされており、本法に基づき通所治療を中心とする医療の充実が図られていたならば、未曾有の人権侵害被害へと発展することはなかったのですが、1916年には、「癩予防に関スル件」改正で療養所長に懲戒検束権を与え、1931年には「癩予防法」としてすべてのハンセン病患者を対象とした検診・消毒・連行が規定され、患者をあぶりだし、家族や郷里との絆を分断する終生絶対隔離政策へと変容していくのでした。



イ 戦後
 さらに戦後も、日本国憲法による基本的人権の保障やハンセン病に対する特効薬が開発され国際的に隔離を否定するといった流れに逆行するかのように隔離政策は継続されていきました。戦後、アメリカで著しい治療効果と報告された薬「プロミン」の獲得運動を通じて、療養所の入所者が結束して全国ハンセン病療養所患者協議会(以降「全患協」とする)が結成されました。これまで自分たちの人権を奪ってきた強制収容や懲戒検束の廃止、病名の呼称変更や退所の明文化等予防法の改正運動が高まりを見せる中、こうした運動に対抗するかのように、逆に強制的な入所が明文化され、外出の制限、秩序維持に関する処分規定を踏襲した新法「らい予防法」が制定されてしまったのです。以降、この法律が1996年に廃止されるまでハンセン病に罹った患者やその家族、また、完治した人々の人権までも奪っていったのです。こうした、強引な隔離政策を進めた予防法には、一貫して退所規定が無かったことや、警察官による患者の連行や執拗な消毒が見せしめ的に行われたことで、恐ろしい不治の病という偏見が強化されてしまったのです。こうした偏見を意図的に助長することで、社会全体が隔離政策を肯定し、協力するよう仕向けられていたのです。


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