災害が育む自然・歴史・まちづくり 
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阪神・淡路大震災


 もうすぐ10周年を迎えますが、1995年1月17日に兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)が起きました。この時の揺れは震度7です。震度7のような強い揺れは1948年の福井地震以来であっただろうと思います。福井地震から約50年間、私たちは震度7の揺れを経験していませんでした。ちょうどその50年間の間に日本は高度成長を遂げてきました。その50年とこれからの50年とは随分違うように思います。この10年間で神戸のような強い揺れを何度も経験しています。私たちの国は日常は安全で安心な国になっていますが、残念ながらこの震度7の揺れに対しては安全なまちではありません。
 神戸の町と名古屋の町とはとてもよく似ています。名古屋も同じような揺れを受ければ大変な状況になってしまうのは間違いないわけです。神戸の地震は朝5時46分に発生しました。これは最もラッキーな時間だったのです。もしもこの朝5時46分が2時間後だったら、新幹線や通勤電車あるいは高速道路、そういった中に何十万人もの人たちがいた状態で強い揺れを受けるわけです。もしもみんなが勤めている時間にこの災害を受けたら、勤め人たちはどうなっていたのでしょうか。神戸の地震は3連休の翌朝5時46分だったので、家族は家の中でみんな一緒にいました。ですから、家族が総力をあげて闘うことができたわけです。神戸の地震は本当に幸いだったのです。
 地震の後、どうやって人が亡くなっていったのでしょうか。みんな家の中で圧迫死をしています。圧迫死で死ななかった人は窒息死をしています。ほとんどの人が10数分以内に亡くなっていきました。壁がたくさんあり、屋根が軽い建物の中にいた人は恐怖感を感じましたが、家は壊れませんでした。家の造り方だけで人の命が左右されるわけです。しかし、そのような耐震性のある家でも家の中は大変です。例えば台所の食器戸棚は観音開きになり、中の物が出てしまいます。家が壊れないにしても家の中には凶器がいっぱいあります。そういったものによってたくさんの人が亡くなりました。亡くなった人は約6000人です。もし諸外国で同じ揺れを受けたら何十万人と死んでいきます。日本は非常に耐震性のある家々にしたので、6000人ですみました。
 この地震では多くの教訓を残してくれました。名古屋に住んでいる私たちは、10年前の神戸の教訓をどれだけ生かしているのでしょうか。ひょっとしたら何も生かすこともなく、ただ漫然とこれからやってくる地震に対して立っているだけかもしれません。神戸の地震の時、その日の号外には「神戸震度6 彦根震度5 ビル倒壊火災 死傷多数」としか書かれていなかったのです。これ以上の情報は何もありません。何人の人が亡くなったのか。どれだけの人が困っているのか。そういった数の情報が出なければ、周辺の私たちはすぐに助けに行くことができないわけです。この情報が氾濫している日本において、とんでもない災害が起こると情報は何も出なくなります。毎日毎日どんどん死者が増えていきます。遺体の確認に時間がかかり、死者の数はすぐには分かりません。神戸一帯が局所的に被災しただけでこういうことになります。これから立ち向かうべき東海地震、東南海地震、南海地震の3つの地震がもしも一緒に起きてしまったら、東京から西全部が被災します。そんな状況ではこんな新聞すら出せないかもしれません。それに対して私たちはきちんと備えができているのでしょうか。私たちは過去どうやってこの国がつくられてきたか、災害とともにどう歩んできたかということをちゃんと知っているのでしょうか。
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