新選組
新選組がメジャーになったのは、昭和3年に子母沢寛という小説家が『新選組始末記』を刊行してからです。これは新選組研究者のバイブルと言われて、実は小説ではなくて全部ドキュメントです。子母沢寛さんは元々毎日新聞の新聞記者でしたので、若い頃の特技を活かして、いろんな人にインタビューをとりました。昭和3年の時点では元新選組隊士だった人や新選組をこの目で見た人はいっぱい生きていらっしゃったので、その人たちからインタビューをとって、それをドキュメントとして書いたのが『新選組始末記』です。少しだけ作り話も自分で勝手に入れているのですが、結構信用できる話もたくさんあります。
例えば、壬生の八木家の八木源之丞さんの息子である八木為三郎さんが、全部子母沢寛に話してくれました。近藤勇という人は口が大きくて、いつも拳固を口の中に入れて人を笑わせていたらしいです。そしてそこからもう1つ裏を読みとると、愛嬌のある人だったと思います。やはり組織を束ねて率いていく人というのは、愛嬌がものを言うと思います。条件とも言えます。恐らく芹沢鴨は愛嬌がなかったので、殺されたのだと思います。
昭和になってから新選組が生きていたと言うとすごく意外な感じがしますが、勘定してみれば当たり前です。昭和3年は偶然にも戊辰の年です。つまり明治維新から60年後ということなので、昭和3年にインタビューをとるということは、今、私が第二次世界大戦のことを知りたいと思って経験者の方にインタビューするのと同じです。つまりそのくらい歴史というのは遠い昔のことではないということです。幕末がすごく遠い昔だとするのは錯覚です。日本は130年前には刀を差してちょんまげを結っていたのが変わりました。そしてその後いろいろな国家の体制が変わるようなことが何度もあったり、大事件がありました。特に昭和20年の敗戦で戦前、戦後という歴史の区分けをされました。このように考えると、遠い昔のような気がしますが、ただの錯覚です。
昔、大阪に鴻池銀行という銀行がありましたが、これが新選組のスポンサーでした。正確には鴻池銀行ではなくて鴻池善左衛門です。今でも昔でもそうだと思いますが、やはり銀行がお金を貸して何かをする、よく考えてみれば幕末の戦乱の時代に、武士なんて誰もお金を持っていないのです。幕府や大名もお金がありません。ではお金はどうしたのかと言うと、どこからか軍費を調達したに決まっています。そして鴻池は新選組に随分お金を貸しました。文久3年に新選組が京都で旗揚げしますが、その時には新選組はもう一文無しです。新選組のファンの人には申し訳ないけれども、国家を語って京都に上ってきたとは思えません。そこでどこからか借金をしなくてはいけないという時に、鴻池にねじ込みました。これは近藤勇にはできませんが、芹沢鴨はお得意です。芹沢鴨は『新選組始末記』によると、ものすごく押し出しの効く人だったみたいです。確かに学問もありますし、剣術も神道無念流の免許皆伝であったので、それで商家に談じ込んで金をだせと言えたと思います。その時の証文が残っています。芹沢・近藤の連名で200両を借りたという証文です。200両はいくらぐらいのお金かと言いますと、米価に換算して1両6万円くらいの計算だと思います。だから1200万です。この時はまだ幕府の威勢が良かったので、こちらに出しておいても損はないだろうというぐらいの気持ちで決裁したと思います。
その翌年、有名な事件である池田屋騒動が起こります。これはいわゆる反幕勢力、よく言えば勤皇の志士、悪く言えば当時のテロリスト、この人たちが京都の池田屋という、三条大橋の袂の旅宿で秘密会合を開いている時に、「御用改めである」と言って近藤勇がそこに入っていって、合計20何人も捕まえてしまったという大事件がありました。これは私の想像ですが、近藤勇のパフォーマンスで、たまたまその時に勤皇の志士たちがそこにいたということではなくて、年がら年中そのような会合はあったのではないかと思います。それで祇園祭の宵宮の晩を狙ったと思います。これはパフォーマンスとしては最高ですから、京の市民たちに対しても幕府の力はまだこんなにもあるぞという宣伝効果、そして新選組の名前を挙げようという気持ちがあったと思います。これは宣伝効果がありました。これによって当時の商人たちも幕府はいけるのではないかと思ったと思います。その証拠にその年の暮れに、近藤勇は鴻池に42億円の借金を申し込みます。銀6600貫です。
先ほど私は200両と言いましたが、実は当時、関東と関西は通貨が違います。主として関西では銀または銭、これが流通していました。これに対して江戸では金が流通していました。これは円とドルみたいなものですから、関東と関西で商売をするためには、これを両替する必要があって、それで両替商ができました。この差益を取っている両替商が巨大化しました。これが日本の銀行のルーツです。したがって、名古屋人は両方の通貨を持っていたので商売が上手です。
さて、その銀6600貫を当時のレートで金に換算いたしますと、7万両、つまり42億円です。これで新選組が売れた、また幕府も力を盛り返したということが証明されています。ただしこの42億円には名目が付いていまして、近藤勇は新選組の軍費とは言わずに、会津藩の軍費として使うという名目でした。恐らく大多数は会津藩に流れたと思います。しかし不思議なことに、会津藩の正式な記録である会津藩庁記録には、どう調べてもこの日付に大きな入金があった形跡がありません。近藤勇が42億円をポケットに入れたということも考えにくいので、表面に出ない闇資金みたいな感じで会津藩の軍費として使われたのではないかと想像できます。
それから慶応3年12月にもう1枚の借用証文があります。慶応3年の11月、12月で大政奉還、辞官納地があって幕府がなくなっています。つまり勝ったも負けたもない、新選組もこの先完全に負け組と決まっているのに、どの面下げて鴻池に借金に行ったんでしょうね。これは鴻池はよく出しました。ただ、この証文だけには利息が書いてあります。これは間違いなく不良債権です。この最後の400両は誰が貸したかは知りませんが、これを決裁した番頭さんはたぶん首だったと思います。ところが後でもっとすごいことをやっています。土方歳三が最後、鴻池函館店に借金に行きます。もう図々しいのを通り越していますね。ところがここでも鴻池は貸します。これは鴻池が支援したのだと思います。ただし、この借用書は残っていません。なぜこれだけ残っていないのかわかりません。このような角度から幕末を見ていくと案外面白いですね。