引用のかたち−全ての言葉は潜在的に引用されている!− 
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潜在的引用


 そこで今日の講演の主眼ですが、潜在的引用ということを提唱したいわけです。全ての言葉は潜在的に引用されているという話であります。これは既に説明したとおりですが、次に少し学問的な難しい問題を話します。
 ここで問題となりそうなことは、「潜在的に引用されているといっても、誰が引用しているのか」ということでしょう。しかし、この講演で既にお話したように、「リアルタイムの自分の意見の引用」ということがありえますので、「自分で自分を引用している」ということになります。あるいは、「こっちの自分があっちの自分を引用している」ということになります。
 このような文章の外側にいて文章自体を引用しているような主体のことは、学問的には何と呼ばれているのでしょうか。それを「表現主体」とか「話し手」という言い方をすると、漠然としすぎて駄目なのではないかと思います。「表現主体」といっても、具体的にどういうことを言っているのかというのが、ちょっと明確ではないと思うのです。つまり、こっちの自分とあっちの自分のどっちが「表現主体」なのかというと、両方とも「表現主体」ではないかと言われそうになりますので、これはいけないのではないかと思います。そこで、こっちの自分、つまり文章全体を引用している一番上の自分というのを、私は「潜在的引用者」と呼びたいと思います。この「潜在的引用者」は従来の学説の中で何に近いかというと、私の知っている範囲では文学理論の分野で「implied author」と呼ばれているものに近いと思います。日本語に訳すと「内在する作者」とか「内包された作者」とか、あるいは「含意された作者」とかいろんな訳があります。これはアメリカのBoothという学者が1960年代に提唱し、アメリカのChatmanという学者が1970年代以降に発展させた概念です。ただ、2人の定義は若干、重きが違っています。Boothは作者の「第二の自己」と言って、「作者」の方から見ています。例えば芥川龍之介という作者がまたもう1人別の芥川みたいな作者を作って、その人が引用しているのだという見方をしているのです。その一方、Chatmanは書かれた後の文章の方から見ています。既に出来上がった作品を読者が読みながら、この文章には「implied author」がいるのではないだろうかと解釈するわけです。つまり、読者が「再構成」したもので、「語り手」というより「原理」のようなものだと言っています。ただ、この「implied author」という概念は、文学理論を研究している人が文学作品を分析するために作った概念ですので、私のように日常会話と文学を等価に並べたものとはなっていません。そのため私の関心と少し違うところがあります。

「零記号」

時枝誠記「零記号」

 もう一つ問題となりそうなことは、「と」や「って」を使わないで引用している文は、「と」「って」の代わりに何があるのか、それとも何もないのかということが気になると思います。
 これについて、従来の学説の中から私の知っている範囲で似たものを探してみました。1940年代に時枝誠記の提唱した「零記号」、1970年代にRossの提唱した「遂行分析」、それから1980年代にChomskyの提唱した理論の中で「CP」というものがあります。
 時枝誠記の提唱した「零記号」は日本語の分析で使われたものですが、どういうものかと言いますと、 「雨が降る」という文の外側を四角で囲ってありまして、その下にちょっと小さな黒い四角がくっ付いています。この黒い四角のところが「零記号」というものです。見かけ上何も無いのですが、ここに「辞」というものがあるのだと主張しているのです。「雨が降る」という文章自体には何もないが、「辞」というものを想定しなくてはいけないという主張に、もしかすると私の「潜在的引用者」と似ているかもしれないと思ったところがあります。

「遂行分析」

Ross「遂行分析」

 それからRossの提唱した「遂行分析」は、例えば「prices slumped(価格が暴落した)」という文があった時に、これは実は下のような図になっているのだというものです。一番左側にIがあって、その次に何か動詞が来ます。例えば、話すというような意味を表す動詞が来て、youが来て、その次にようやくprices slumpedが出てくるのです。つまり、prices slumpedという文は、実はI tell you prices slumpedなのだと。「私はあなたに話す」というのは、どんな文にでも潜在的にあるのだという主張をしているのです。
 しかし二つともこの講演の「潜在的引用者」とは、ちょっとレベルの違うものだろうと思います。どういうことかというと、時枝誠記の「零記号」にもRossの「遂行分析」でも、文の外側に想定した影のような要素に、話し手の気持ち(感動や、相手に向かって何かを言いたい気持ちなど)が直接備わっていると考えられているようなのです。しかし私の「潜在的引用者」は、ただ「引用するだけ」で、感動や主張の気持ちは篭っていません。感動や主張の気持ちは、引用された文章の中に入っているものです。ただ、引用することによって何らかの意図を表現しようとは思っています。しかしその意図が何であるかは、はっきりとしないことがあります。つまり、二人の想定した要素より、更に外側の話をしているということです。

「CP」

Chomsky「CP」

 そこで一番近いのは、最後に挙げたChomskyの「CP」というものです。左の図を見てください。これはwe think that John will come(我々はジョンが来るだろうということを思っている)という文ですが、このthatにあたるところに「C」というのがあります。もしthatならば、中に埋め込んである文の最初につけるものですが、それが文の一番外側にも何かthatにあたるようなものが、潜在的にあるのではないかということです。Chomskyは、私が手書きで補っておいた「C」のところが実はあるのだということを言っているようです。しかし、Chomsky自身はおそらく「潜在的引用」ということは思ってもいなかったのではないかと思います。
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