引用のかたち−全ての言葉は潜在的に引用されている!− 
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「って」「と」を使わないで引用を表す


 引用を表す場合には「って」や「と」を普通は使いますが、引用を表すための「しるし」があった方が明らかに引用だということが分かるのでいいと思われます。「って」や「と」を用いる他に、例えば他人のふりをして声色を変えて話すとか、あるいは書く場合にはカギカッコを使ったり、行頭を2字くらい下げて前後1行空けたりするような方法です。しかし実際には文脈でわかるだろうということで、特に「しるし」を付けずに引用を示す場合があります。その例として、坂口安吾氏の『堕落論』という文章の一番最初のところを見ていきたいと思います。

  半年のうちに世相は変つた。(しこ)御楯(みたて)といでたつ我は。 大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散つた
 が、同じ彼等が生き残つて闇屋となる。もゝとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男
 を送つた女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかづくことも事務的になるばかりであらうし、・・・


 これは戦後すぐの頃の世相について書いています。この中に、和歌のような言葉が3ヶ所ばかり出てきますが、坂口氏自身が自分で詠んだ歌かというと、そうではありません。最初の「醜の御楯と・・・」とその次の「大君のへにこそ・・・」というのは、もともとは万葉集の中にこういう歌があります。戦争中に国民を駆り立てるためにこういう歌が盛んに宣伝に使われたと言いましょうか、当時はかなり有名な万葉集の歌だったようです。3つ目の「もゝとせの命ねがはじ・・・」は、これは万葉集には無い歌のようです。もしかすると戦争中に新たに作られた歌かもしれませんが、当時の世相をよく反映しているということで引用したのだろうと思われます。私の資料では傍線を引いておきましたが、原文ではカギカッコも何もありません。強いていうと、少し古語が使われていますので、ここだけ浮いているかなという気はします。前後の引用を示す「しるし」は使われていませんが、けれども実際は引用であるという例として挙げておきました。
 それから、リアルタイムの自分の主張を表す場合には、むしろ引用の「しるし」を示さないことが普通です。「って」や「と」を使わないで自分の主張を表すというのは、先ほどの「いいから俺にまかせて置けって」から「って」を取ったもので、次のような形です。ごく普通に自分の主張を表す場合です。

 いいから俺にまかせて置け。

 これはストレートに自分の主張を表しているわけですが、先ほどの「って」というのがあっても無くても、あまり主張の内容には違いがないような気がします。このような形の方が普通だろうと思われるわけです。
 その他に、「って」や「と」を使わないものの例として物語の末尾があります。口承文芸で「むかしばなし」を語る場合、割と決まったパターンが見られることがあります。それは、始まりと終わりに決まった言葉を使うというものです。例えば始まりに使う言葉としては、「むかしむかし・・・」というのがあります。極端な例では、「これから話す話は昔のことで、本当にあったことかどうかは分からないけれども、でも本当のことだと思って聞け、よいな。」と、そういう意味のことを枕に話してから「むかしばなし」を始めるという場合もあるようです。
 それから終わりに使う言葉としては、文字通り「これでおしまい」という言い方で終わる場合とか、「どっとはらい」という、意味がよくわからない言葉で終わるような場合とか、その他にも「・・・だとさ」などの言い方で終わる場合もあるようです。「・・・だとさ」のようなタイプの終わり方が、源氏物語のような昔に書かれた文章にも出てきます。源氏物語は54巻に分かれていますが、それぞれの巻の閉じ方は様々です。例を2つ挙げておきます。

 つれなき人よりはなかなかあはれに思さるとぞ。(源氏物語帚木(ははきぎ)巻末)
 これはいとさま変りたるかしづきぐさなり、と思いためり。(源氏物語若紫巻末)


 帚木巻のように、引用を示す「とぞ」のような表現が(なぜか)付されているものもあれば、若紫巻のように、そういうものが(なぜか)特に付されていない巻もあります。帚木巻も「思さる。」で終わってもよいように思われますし、逆に若紫巻も「思いためりとぞ。」のように終わってもよいように思われます。このような巻の閉じ方の違いに、どんな意味があるのかは私にはわかりません。
 もっと一般的に言えば、どんな文章でも、どんな発言でも、その(始まりと)終わりに何か「引用のしるし」をつければ、引用の形で示すことができるということになります。「引用のしるし」がないのは、それが「引用ではない」からではなく、「引用だがわざわざ示すまでもない」からだということです。帚木巻は「引用のしるし」をあえて示したもので、若紫巻は「引用のしるし」をあえてはずした書き方をしたという、それぐらいの違いしかないということです。そこで、この講演の副題に示したように、「全ての言葉は潜在的に引用されている!」ということになるのではないかということです。
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