引用のかたち−全ての言葉は潜在的に引用されている!− 
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引用するのは何のためか


 まず、人が「引用」という行為を行う場合には、どういう場合があるのかを考えてみますと、私なりに大きく分けて4つぐらいあると思います。

 1)自分の意見の代弁・根拠として
 自分の意見を述べたい時に、先人の発言で似たような見解を述べているものを引用することがあると思います。それを引用すると自分の意見の補強になったり、あるいは自分の意見の説得力を増す働きがあるのではないかということです。

 2)自分の意見に反する意見
 一方、あえて自分の意見と違う人の見解を引用するという場合もあると思います。これは、他人の見解に反論を加えることによって、反対に自分の意見の説得力を増すことができるからです。結果的な効果としては、上のものと同じようなところがあるのかもしれません。

 3)ひけらかし?
 ここからがちょっとおもしろいもので、「ひけらかし?」と書いておきましたが、中にはなぜ引用を行ったのかよくわからないものもあると思います。有名な人の発言を引用することによって、「自分はこんなことも知ってるんだぞ」ということをひけらかしているのかもしれません。例えば本の初めのところに「エピグラフ」という文章がついているものがあります。これはその本と微妙に関わりのある内容だろうなと思える先人の文章の一節ですが、著者がどういう意図でその文章を引用したのかは、はっきりしません。こちらで推測するしかないものです。
 そこで、具体例を載せておきました。 河野六郎氏の『文字論』という本の第1章の初めのところです。 四角で囲ったところは、ちょうど本を開いたところだと思って下さい。その右ページのところに、漢文が一行書いてあります。

『文字論』

河野六郎『文字論』

それを拡大したのがその隣に書いてありますが、周易(易経)という中国の古い本の中にこんな文章があります。「子日 書不盡言 言不盡意」書は言を尽くさず、言は意を尽くさず。書いたものは言いたいことがなかなか言い切れないとか、仮に言ったとしても自分の意図がなかなか盛り込めないというようなことを言っていると思われます。こういう古い、もしかすると有名な文章の一節を持ってきているわけですが、しかし、これがこの本全体の中でどういう位置を占めるのかは、はっきりとはわからないのです。何となく、本全体を読むと関わりのあることを一言で言い表したものとして取ってきたのかなという気もしますが、読者の推測に任されているのみです。

 4)コラージュ
 同じように、引用することそれ自体が目的になっているものもあります。もとの発言(や画像その他)を別の場所に切り取ることによって、全く違った意味を持たせることができます。それを芸術的に行うと、「コラージュ」となります。その「コラージュ」の具体的な例としては、先ほどの訴訟の写真です。あれは写真を使って「コラージュ」をやったものです。(もっとも「コラージュ」というのは、狭い意味ではのり付けしてペタンと貼り付けることのようですが、写真の場合はのり付けするのではなくて、いろいろな手段を使って合成するわけです。それで「フォトモンタージュ」と言ったりすることがあるようです。私自身は「コラージュ」とあまり区別しないで書いてしまいました)こんなふうに引用することそれ自体が目的として、新しい作品を作ってしまうというものがあります。これは、元の写真から余計なところを切り取るとか、カラー写真を白黒にするとか、それくらいの改変しか行っていません。
 それから、文章を使って「コラージュ」をやったものもあります。その例として、中山眞彦氏の『物語構造論』という論文を紹介いたします。この文章は中山氏流のかなり個性的なスタイルで書かれています。どんなふうになっているかと言いますと、

  いうまでもなく物語テキストは、語り手の言葉と作中人物の言葉によってつくられる。「物語られる世界は、作中人物の
 世界であり、語り手がそれを物語る」が、作中人物もまた「自分の思考、感情、行動を語り得る」。ゆえに「問題は、作中(・・)
 人物の言述をさらに語り手が物語る言述(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)として物語が構成されるゆえんの、独自の叙述手続きを知ることにある」。・・・


「」の中が他人の文章の引用になるのですが、その前後の中山氏自身の文章からそのまま続いていると言いましょうか、最後の「・・・知ることにある」と言っているのは他人の主張のはずですが、いつのまにか中山氏自身の主張でもあるので、ここで文が終わってしまっているという引用の仕方がしてあるわけです。また、別のところを見ますと、

 つまり「あらゆる作中人物は、潜在的にその言表行為が報告される者であり」、その潜在的言表は、作中人物が・・・

ここでも引用されている部分が文の途中で終わっていますが、そのまま自分の文章の中に続いているという切り貼りの仕方をしているわけです(これは、私自身はあまり好きではないタイプの書き方で、『誰々はこういっている「・・・・・」』というようにどこからどこまでが誰の意見かということと、それを紹介する自分の言葉というのを分けた方がいいのではないかと思うのですが、それをあえて分けないで書くスタイルをとっているのです。こういう文章の「コラージュ」の仕方もあるという例として挙げました)。
 一方、少し改変を加えてやると「パロディ」となります。改変を加えてやった場合は、厳密には「引用」と言ってはいけないのかもしれません。少なくとも法律的には、人のものに改変を加えた場合は「改ざん」と言って、引用とは認めてもらえないわけです。私は「パロディ」と言いましたが、もっと専門的な用語では「PASTICHE(パスティーシュ)」という言葉もあります。「パロディ」というと、人を笑わせるために作るという笑いの要素が少し入ってくるところがありますが、特に笑いを目的にしない場合もありますので、もっと広い概念として「PASTICHE(パスティーシュ)」という言葉を使うこともあるわけです。
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