古代中国と日本王朝@ 中国・朝鮮からの文字受容と日本王朝行政の成立・展開 
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日本列島へ文書行政が伝わる


 さて、文書行政が日本にはどのように伝わってきたかというお話に入っていきます。律令的な近代国家の仕組みとそれを行うための文書による行政、これらを意識的に取り入れ始めたのは、欽明天皇の時代(6世紀の中頃)であったようです。これから後、100年とちょっとで急激に、日本は中国とほとんど同じような文化に染まっていきます。そして、この欽明天皇が始めた近代的な行政の仕組みは、推古天皇の時代に聖徳太子の助けを得て、実際に実を結んでいきます。私達が「推古朝遺文」と呼んでいる日本語の文献は、推古天皇の時代に文書行政が行われたことの一つの象徴です。この時代に遣隋使が派遣され、17条の憲法が作られ、冠位12階が定められるなど、氏族制の政治から近代的な法治国家へ日本は変わり始めるわけです。
 ところで、こういった文書行政の輸入や中国の政治制度の輸入は、果たして中国直輸入だったのかということを考えると、たぶんそうではないだろうと思われます。私が特に強調してお話したいのは、常に中国大陸と日本列島との間に朝鮮半島が介在していて、それが非常に重要であるということです。なにしろ、朝鮮半島と日本列島は一衣帯水です。そういう状況を考えると、朝鮮半島との交流が継続的な本流としてあり、常に影響があっただろうと思われます。例えば、日本の8世紀の資料である『古事記』や『日本書紀』には、「応神天皇の時代(5世紀)に百済から王仁(わに)という人が『論語』と『千字文』を持参した」と書かれています。これが日本での漢字の始まりという説話になっているわけです。あるいは朝鮮半島では、12世紀の『三国史記』、13世紀の『三国遺事』という歴史の本がありますが、その『三国史記』には、「428年に百済が倭の国に対して50人の使いを派遣した」という記事が出てきます。このような記事からも、日本と朝鮮半島は常に交流があることが分かり、朝鮮半島の影響は濃いと思われます。

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