テオティワカンは1960年以前は普通の人たちが住んでいるところに、ピラミッドのマウントだけが飛び出しているような場所でしたが、64年に政府がこの古代都市の中心部分の土地を全部買い取って、大きな遺跡公園を造りました。その時に大きな調査が行われて、太陽のピラミッド、月のピラミッド、死者の大通り、ケツァルパパロトルの宮殿、羽毛の生えた蛇神殿というものが調査、整理され、今のような状況になりました。ここだけ保護されていて、この内部は観光客が訪れる区域になっていますが、その外は今も5つの町がメキシコシティから非常に近いこともあって人口が増えていき、遺跡破壊が進んでいる状態です。この古代都市は山の麓まであって、町の境をはるかに越えて拡がっていました。だいたい5km×5kmくらい拡がっていまして、ここの家のどこの庭を掘っても下から建物の跡が出てくる状態です。今から話をすすめるのはこういった古代都市、これは古代計画都市の1つの大きな例として世界的に認められていますが、その計画性とこのモニュメント自体、調査が最近非常にすすんでいて、その成果を紹介し、そこから出てきた墓とその副葬品を見ながら古代都市の性格、その宗教と政治の関わり合いを考えていきたいと思います。ここはまだ文字というものが確認されていません。文字のはしりのようなものはあるのですが、はっきりと読めるものが全くありません。したがってこの古代都市の解釈も専ら考古学によるわけです。
テオティワカンという名前は神々が住む都という意味です。これはアステカ人がテオティワカンが滅びてから800年以上後に来た時に、この廃墟のピラミッドとマウントを見て、はっきりと人工のものだとわかるので、これは神が住んでいた場所だと考えて、神々の都という名前をつけました。ちなみに太陽のピラミッド、月のピラミッド、死者の大通り、こういう名前もすべてアステカ人がつけた名前です。それ以後、発掘調査が進んでもここは非常にわからないところです。今のメキシコはいろいろな民族が住んでいますが、テオティワカン人はその民族のどれに相当するのか、何語が喋られていたのかもわかっていません。王墓も見つかっていませんし、宮殿というものもはっきりと確認できない、住居集は続いているけど、飛び抜けて立派なものが見つかりません。つまりその為政者の姿が見えませんでした。そういったこともあり、神聖な都市、神々の都というイメージがついていました。それが80年代にモニュメントの中を掘り出して出てきたものから、どのような人たちがこの町を造っていったのかということが少しずつ見え始めてきました。
![]() テオティワカン中心部の平面図 |
特別な日に太陽の沈む方向、これは8月12日になります。なぜ8月12日かはわかりませんが、その日に太陽の沈む方向と一致しています。なぜこの日が重要かといいますと、マヤ暦の長期暦が始まるのが8月12日です。したがってその日は天地創造の日、この世の始まりという神話があったからだと思われます。こういったものに関わって町の中心軸が造られて、建物の長さ、区分けも暦に関わって建設されています。他にも819という数字、これもなぜ819かはわかりませんけど、マヤの方でも記録されている暦の数字です。このように町の中心軸を暦の数字に合うように造り替えています。町造り自体も自分たちのその当時の世界観の解釈もそこに組み入れた都市構造だと言えると思います。私たちが今、考えている都市は非常に機能的に区分されて造られていますが、この当時はそういう機能よりも宗教的な配置、意味付けのためにモニュメントが存在するというふうにいえると思います。まだその深い意味はわかっていません。
テオティワカンの崩壊の原因は恐らく戦いです。私たちが掘って始めに出てくるのは焼け跡です。それも神殿は始めに焼かれています。神殿を焼くというのはその当時、征服を意味していたからです。アステカの時代になっても神殿を焼くという行為と、人でいうと髪の毛を握むという行為が征服という象徴的行為になります。このような跡がたくさん見つかっています。今のメキシコシティーは紀元後1400年くらいからアステカが力を持って、このメキシコ中央高原一体を征服しました。遺跡、中心神殿が80年から発掘されましたが、片側にはそれを更に征服したスペイン人のシンボルとしてキリスト教の教会が建っています。