日本文学と博覧会 
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『博覧会』 (三島由紀夫)


 戦後に進んで、三島由紀夫の『博覧会』(1954年)という作品を紹介します。
 この作品には少し特殊な設定があるので、その点を説明しておきます。小説家である私が語る作品という体裁を取っています。今まで作品をいろいろ書いてきたけれども、完成させられなかった作品がたくさんあり、そのような作品では、主人公をある程度作り始めたけれども、作品は完成しなかった。その主人公たちはどうなっているかということについて、次のように作家は捉えるわけです。作品は完成しなかったから人間関係がきちっと作られなかった、つまり社会性を帯びるところまではいかなかったということです。人間というのは当然、人間関係の中で存在しますが、その人間関係が十分に作られなかった人物が、一人歩きしたらどうなるのかというのが、この作品です。
 この一人歩きしてしまう主人公が貞三という人物です。貞三は十分に人間関係を作らないまま、一人歩きしてしまったので、物理的には存在しているはずですが、周りの人たちからは見てもらえない存在、つまり透明人間のような形になっているわけです。「任意の人間だ」という言い方をしています。それは社会性を持たない、見てもらえない存在だという意味です。
 貞三は東京の日比谷公園で、戦後本格的に開かれた最初のモーターショーの会場の中をかなり批判的な眼差しで動き回ることになります。自動車がこのようにできる、組み立てられるという展示があって、それを目で追いながら自分は逆に自動車を解体していきます。完成の方から出発して、最初の部品に戻してしまう、このあたりは自分自身が完成してもらえなかった登場人物として、一種の逆襲が読み取れるのではないかと思います。そういった嫌味な想像などをしながら、最後は展覧会会場の人ごみの中に紛れて消えてしまって、小説家の私はほっとするという終わり方です。
 この作品で注目したいのは、貞三という関係性や社会性を失っている存在を、わざわざ博覧会という、人間が集まり、様々な視線が交錯している場所に呼んできたことです。社会性を持っていないから、周りから見えないとか、そういったところは小説家の想像力による思考実験のようなものですが、そのような実験の場として博覧会を選んでいるというところから、『虞美人草』や『お富の貞操』に触れた時に見ましたが、視線が交錯した場所であるという、博覧会の特徴が裏側から浮かび上がるのではないかと思います。つまり展示物を見ることが第一目的でも、そこに来ている人間も見られる存在になり得るということです。
 しかし、このことが貞三においては成立しないわけです。専ら批判的に見るばかりで、自分は見られない。その結果、全体として貞三は自分とひたすら対話している、自意識的な独り言に終始しているという印象を受けますが、このことから逆に、本来なら博覧会にあるはずのもの、つまり視線の交錯という点が浮かび上がってくるのではないかと思います。人間の関係性や社会性を浮き彫りにするのが博覧会だということを、逆説的に示しているのではないかと思います。  

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