日本文学と博覧会 
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『南洋館』 (与謝野寛)


 次に与謝野寛の『南洋館』という詩を取り上げます。この作品は1914年(大正3年)に発表されました。その1914年に開かれた東京大正博覧会に子どもを連れて足を運んだ時のことを書いています。一言で言うと批判です。詩の中で、
え?これが大正博覧会の南洋館?
(中略)
「こんなぢやない!こんなぢやない!南洋は!」
(中略)
こんなぢやない!こんなぢやない!
この「こんなぢやない!こんなぢやない!」というのは、繰り返しこの後も言われます。そして、
ああ!どんないい物でも、
どんな真剣な物でも、
日本の空気に触れると、
大抵みな萎(しな)びてしまふんだ!
精神を無くするんだ!

おれは近頃欧羅巴(ヨーロッパ)の往復に、
新嘉坡(シンガポール)を二度観て、
南洋の生活を羨(うらや)まずに居られなかつた。
そして巴里(パリ)や羅馬(ローマ)を観て来た後にも、
やつぱり南洋を羨しいと思つた。
とあります。このような形で大正博覧会全体の批判というよりも、特に南洋館について全く納得がいかないということから出発しているわけです。しかし「日本の空気に触れると、大抵みな萎びてしまふんだ!精神を無くするんだ!」は、相当強い口調で日本が駄目だというように言っていますが、その根拠として寛のヨーロッパ体験がありました。与謝野寛は1911年から13年まで、ヨーロッパに滞在していました。主にフランスのパリですが、当時は当然、船での往復なので、シンガポールに寄港したということです。パリもローマも悪くない、しかしそれに劣らずシンガポールが素晴らしいというのが与謝野寛の感想です。
 今まで見てきた作品は博覧会にまつわる、その近代化が不十分だとか、近代化することがはたして幸せなのかという問題でしたが、この与謝野寛の作品の場合は、西洋とは関係のない場所、非西洋であるアジアが取り上げられている点が興味深いと思います。
 荷風の『酔美人』を見て、オリエンタリズムということを言いました。では、与謝野寛のこの作品ではオリエンタリズムがどう関わっているのか。近代化に努めている日本から見れば、ずっと遅れている地域というのが、当時の常識的な見方だったので、その点では日本が失った素朴なものが、ここにはまだあるという視線があったかもしれないので、そういう意味ではオリエンタリズムと言ってもいいかもしれません。しかしそのようなものを博覧会の展示対象として持ってきた場合に、その魅力が台無しになってしまう、博覧会の問題性を生んでしまう、その日本のあり方にまで視野は及んでいると思います。したがって、興味を引かれた出発点にはオリエンタリズムがあったかもしれませんが、単にシンガポールに、同情し感情移入しているだけではなくて、そうした魅力を日本がきちっと受けとめられないというところまで及んでいることは、貴重な視点ではないかと思います。
 最近の博覧会に関する研究では、博覧会の展示テーマの中で、植民地主義に基づいたテーマが非常に重要な部分を占めていたということが指摘されています。19世紀の半ばから万国博覧会は始まり、そこで展示されるものとしては、自分たちの文明が強国としてどれくらいの可能性を持っているかを示す新技術がまずありましたが、他方で植民地として得た地域の様々な面白い文化を展示するということも、支配下に治めたということから重要でした。
 西洋で開かれた万国博で、日本が、美術工芸品や芸者踊りを出して評判を得たということは、あちこちに書かれていることだと思います。それは日本がオリエンタリズムの対象として、ある種の植民地主義的な対象として「見られる側」に立つ場合ですが、それだけではなくて、日本で開かれた博覧会でも、例えば北海道の先住民であるアイヌの習俗を紹介したり、或いは沖縄の習俗を紹介したりということが繰り返し行われています。また『虞美人草』では台湾館が竜宮城のようだと宗近が言いますが、じっさい、台湾館は当時、非常に評判になったようです。この時すでに台湾は日本の領土になっていました。そういった意味では明らかに植民地です。つまり、一方で、日本は海外ではオリエンタリズムの対象として見られましたが、国内ではマイノリティーや植民地をオリエンタリズムの対象として展示するということが行われたということです。
 1914年の時点ではシンガポールは日本の植民地ではありませんでしたが、アジアでは植民地化を逃れようとして、「脱亜入欧」という方針、すなわちアジアから脱してヨーロッパに入るという方針で、日本は近代化を進めていたので、タイなど一部を除いて欧米の植民地になってしまったアジアの地域に対して、日本がどういう眼差しを向けていたかということは明らかです。その点を踏まえると、この与謝野寛の『南洋館』は南洋を貧弱なものに見せてしまう日本の博覧会を批判しているだけではなくて、植民地主義的な視線とは違うものを提出しているのではないかと思います。
 明治から大正にかけて「帰朝者」という言葉がありました。留学体験を持って帰ってきた日本人ということですが、漱石や荷風、与謝野寛はそういう意味では帰朝者です。3人とも欧米の実態と比べて、日本の近代化はどこか浅薄であるとか、皮相であるということをいろいろな形で言っていますが、西洋との比較が大部分なので、その中で与謝野寛にはアジアが見えているということは非常に重要なことではないかと思います。  

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