日本文学と博覧会 
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おわりに


公開講座の風景
 最後に、最初に掲げた3点に対応した形でもう一度整理しておきます。
 1つ目の博覧会が小説の素材や舞台として作家をなぜ呼び寄せたのかというのは、博覧会は人々が集まってきて、そしてものだけではなくて、人間もまた見られる、視線が交錯する場所である。これが作家が小説の舞台とする大きな根拠になっているのではないかということです。それは三島由紀夫の『博覧会』が裏側から示していたのではないかと思います。そこでは人間が比較され、品定めされ、価値付けされる、そういう場所だということです。
 2つ目の作家の登場人物がどのような眼差しを博覧会に向けたかということですが、これは具体的に作品を見てきました。
 3つ目の小説の本質と博覧会がどのように関わっているかということは、ごく簡単にしか言えませんが、次のようになるでしょうか。小説や詩などの文学表現が、人間のドラマを描くものと定義すると、人間関係が展開するということが小説ということになります。その中で男女がくっついたり離れたり、親と子がどうこうなったりなど、様々な人間関係のドラマが展開されますが、そこには当然比較したり、価値付けたりということが、常につきまとうわけです。それを凝縮的に、あるいは集約的に示すのに、博覧会というのは、うってつけの場になり得ると言えると思います。
 もう少し抽象化してみると、小説はフィクションで、フィクションは現実と切り離せません。もちろん実験的な作品もありますが、そういうものも含めて、どこかで人間の現実と触れていないと読むに価しないと思います。しかし他方で現実との接点といっても、小説は始まりがあって、終わりがあるというものなので、現実をそのままとらえるというのは不可能です。したがって切り取りや単純化、断片化という操作は必ず行われますが、そのことが逆に、現実そのものだと、混沌として見通せない、人間のその現実に構図や形式、遠近法、そういった見通しを与えてくれるものというように、小説やフィクションを定義することができるのではないかと思います。
 そのように見ると、そういった見通しを与えてくれる小説が、人間のあり方が、凝縮された場所である博覧会を呼び寄せるということにつながってくるのではないかと思います。もちろん見せ物的な場所として、流行風俗がそこで関わり、様々な好奇心を満たす新しいものが展示されて、またイベントとしてのお祭り性にも事欠かないわけですが、人がたくさん集まって、様々な視線や思惑が交錯する、そういう場所として博覧会がある。そのことがフィクションの根本的なあり方と深くつながっているわけです。

−参考文献−
石川淳『白頭吟』中央公論社、1957
『宮本百合子全集第九巻』、新日本出版社、2001
『漱石全集第四巻』岩波書店、1994
『漱石全集第二十三巻』岩波書店、1996
『芥川龍之介全集第九巻』岩波書店、1996
『荷風全集第六巻』岩波書店、1992
『荷風全集第四巻』岩波書店、1992
『反響』1914・10
『三島由紀夫全集19』新潮社、2002  


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