日本文学と博覧会 
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『お富の貞操』 (芥川龍之介)


 見物客が単に「見る」側に立つだけではなくて、「見られる」側にも立ち得るということを上手く活用した作品が芥川龍之介の『お富の貞操』(1922年)です。
 あらすじを述べておきますと、明治の初めに、官軍が彰義隊という幕府側の軍隊を攻撃した上野の戦争がありました。その前日、明治元年5月14日に、明日にも戦があるということで、上野の近辺に住んでいる人たちは立ち退いていました。その中で小間物屋の若い女中であるお富が、主人が立ち退きの際に連れて行くのを忘れていた三毛という猫を取りに戻ってきます。ちょうどそのとき雨が降っていたのですが、顔見知りの、作者の言葉で言っておきますが、乞食の新公が雨宿りをしていました。そこのところに出くわし、外は雨で二人っきりになってしまいます。この当時お富は十代後半という年齢設定で、新公が妙な気持ちを起こし、猫に短銃を向けて、猫は渡してやるからということで、お富の肉体を要求します。いろいろ抵抗しますが、結局お富は思い切りのいい態度を示して、それがかえって新公をひるませることになって、要求が実行されなかったという出来事がありました。
 それから20年余りの時が経ち、明治23年3月の第3回内国勧業博覧会の開会式の当日の場面になります。上野の博覧会会場のそばの雑踏の中で、お富と新公がすれ違います。その時、新公は明治政府の功労者として立身出世して馬車に乗り、お富は夫と二人の子どもを連れて幸せそうに歩いていました。お富はちらっと新公を見て、新公も気づいたらしいということで、やっぱり明治元年の時にもただの乞食ではないと思っていた、自分の心の動きを思い返すという話です。
 この作品は博覧会という、近代化を進める政府が威信をかけて行う大切な行事の会場近くで二人を再会させることで、それまでのお富と新公の二人の間に起こった、それぞれの人生を簡潔に示していると思います。博覧会会場から出てきた馬車に乗っているということで、新公の今の地位はすぐわかるわけです。お富の側に立って言うと、恐らくその博覧会会場を訪れようとしていると思いますけど、そのお富の眼差しの前に、この後会場に入って見るであろうどの展示品よりも重要なものとして、新公の存在が提示されたということです。二人のお互いの眼差しの中で、良き婦人であり、良き母となったお富がいて、立身出世した新公がいる。それぞれ幸せな人生を進んでいた二人が、お互いの眼差しの中に展示されているという言い方ができるのではないかと思います。
 ここにも視線の問題が出ていると思いますが、物を見るだけではなくて、場合によっては人の姿を見る場所として博覧会があるということです。その特徴をうまく利用しているのではないかと思います。  

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