日本文学と博覧会 
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『白頭吟』 (石川淳)


 まず最初に取り上げるのは、1957年(昭和32年)に発表された石川淳の『白頭吟』という小説です。作品の中の時代設定は1921年、22年(大正10年、11年)で、政治家の息子である晋一という二十歳の青年が主人公です。様々な青春模様が書かれた作品で、最後に晋一がロンドンに留学して作品は終わります。そのロンドンに留学する直前に、上野公園で開催されていた平和記念東京博覧会の会場を訪れます。この博覧会には平和記念という言葉が付いていますが、第一次世界大戦が終わって、平和が戻ってきたことを記念した博覧会でした。そこで観覧車に乗ります。
 注意したいのは、晋一が恋人である志摩子と二人で、ロンドンに留学する直前に博覧会に行っているということです。そのことを考えるために、少し日本の明治維新以降の近代化について簡単におさらいしておきましょう。
 明治維新以降の日本の近代化は基本的に西洋化という形で進められました。「近代化=西洋化」を進める中で、西洋の知識や美術を吸収したり、人材を育成するために、使節や留学生を派遣しました。それからもう1つは、日本の国内に海外の様々な品物を紹介し、また日本で作った新製品を紹介することで、近代化がどれだけ進んだかという達成度を示す、または目標を設定するという、目に見える形で展示をするために博覧会が行われました。この2つに石川淳の『白頭吟』が触れているということです。つまり晋一が留学するということ、そして博覧会に行くということです。このような近代化の圧縮された形が作品の末尾で示されているのではないかと思います。西洋と博覧会が切り離せないものとして示されているということです。
 ところで実は、この平和記念東京博覧会には観覧車はありませんでした。これは石川淳がうっかり間違えたという言い方もできるかもしれませんが、比較的芸の細かい作家なので、でたらめに書いたとは考えられないところがあります。一番考えられることとしてはおそらく、東京の街の中を上の高い場所から見渡すというシーンが作品として必要だった、最後におく必要があったのではないかという気がします。本文を見ると観覧車から下を見渡しているシーンがあり、そこにこのような言葉があります。
巷(ちまた)のけしきはさしあたり太平樂をきはめてゐた。
結局、この感想を得る必要があったのだと思います。これは東京の街全体に対する印象です。その後の会話の中で、
そのとき、志摩子は箱の窓から乗り出すやうにして、「あ、あそこに。」
とあります。しかし晋一は志摩子が何を指さしたのか把握できませんでした。志摩子は目を逸らさなかったのですが、一緒に見ようとすることは無駄であったと諦めてしまう。ここには二人の関心のずれが語られています。
 ここでは大きく全体を見渡すということ、もう1つは恋人同士で関心のあるものを目で探りあう、視線の問題が博覧会会場で扱われていることが大事なことだと思います。この点はこの後の作品でも出てきますので、頭の片隅に入れておいて欲しいと思います。観覧車が本当はなかったということを言いましたが、この視線の問題を浮かび上がらせるために作為されたのではないかというのが、私の推測です。

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