新大陸の古代王朝(2) インカの国家宗教と政治 
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インカの国家宗教


 インカ帝国では、国家宗教の中心はインカ族の太陽神崇拝です。太陽は万物の創造神ヴィラコチャの創造物であり、インカ皇帝は太陽の子であると考えられました。しかし、それだけではなく、インカ族は、同化した他部族のさまざまな祭儀を取り入れ、太陽神を中心とした神々のパンテオンを組み直しました。神々は、太陽(インティ)を始めとする天体(月、星、稲妻、雨、など)や自然(大地、山、石、泉、川、海など)、共同体(アイユ)の祖先(のミイラ)や文化英雄でした。
 インカ帝国の始祖伝説は次の通りです。高原の湖、チチカカ湖の太陽の島で、マンコ・カパックとその姉妹が太陽の神によってつくられました。当時先住民達は「野蛮」な生活をしていたので、太陽の神は彼らに人間の生活の仕方を教えるように命じました。マンコは姉妹を伴って、神の教えに従い、黄金の杖を持って旅に出ます。チチカカ湖から北に向かって、苦しい旅が続きましたが、クスコの谷に入って、黄金の杖を地面に投げると、杖は見る見るうちに地中に沈みました。そこで太陽神のいった豊かな土地、都をつくるべき土地に来たことがわかり、マンコ達は仮の住居をつくり、マンコは住民に農業を、姉妹達は織物を住民に教えました。それにより、住民は人間の生活を始めることができました。
 インカ帝国は、中央アンデスの諸民族を征服したのちに、国家統合の方法として、インカ族の宗教の普及を図り、各地に太陽の神殿を建設し、神殿の土地と家畜の管理を人民の義務としました。また、アクリャワシという処女の館を神殿に付属して設け、選ばれた処女たちに儀式用の織物を作らせました。インカ帝国の儀式では、創造神、太陽、雷光はつねに最高の権威をもっていました。そして毎年6月に、インティ・ライミという太陽に対する盛大な儀式が挙行されます。太陽の輝きは黄金の輝きと同一視され、クスコの太陽の神殿は、コリカンチャすなわち黄金の囲いともよばれ、内部はさまざまな黄金で飾ってありました。
 太陽を始めとする自然の聖なる顕れはワカと呼ばれました。ワカはさまざまな創造神話の中で語られ、それぞれのワカに対する儀礼が定期的に行われました。ワカは、ドイツの宗教学者ルドルフ・オットーのいう「聖なるもの」の特性をすべて兼ね備えています。すなわち、「魅惑と畏れ」です。丘陵や岩石や樹木などの自然物のうち、変わった形のもの、滅多にない珍しいもの、巨大なもの、怖しいものがワカとされました。これらのワカは、征服した住民たちの聖なる事物でもあり、インカ族はそれらをうまく国家宗教のパンテオンに組み入れました。征服された部族のワカで、動かせるもの(巨石など)は行列を組んでクスコの聖域へと運ばれ、そこでそのまま遠隔地からの巡礼の対象となり、動かせないもの(山や川、洞窟や泉など)はそのまま帝国の聖域の一つとなりました。
図2 性差
図2 性差
 インカ皇帝は国家の具現者であり、法であり、さらにまた神=ワカそのものです。インカのパンテオンでは太陽が中心の位置を占めていますが、自然界と人間社会の創造主であるために、ヴィラコチャが上位に昇ることになります(図2)。ヴィラコチャはチチカカ湖の水泡から生まれ、川を伝って北西に進み、大海の泡に消えたとされる神ですが、それは1532年にピサロと彼の部下たちが現れた方角でした。そのためピサロらスペイン人は「白い人」ヴィラコチャと当初インカ族に受け止められました。
 インカでは神殿は王とその血縁者のみに解放され、一般には秘されています。ケチュア語で宇宙の「臍」を意味するクスコの中心には太陽神殿(コリカンチャ)がおかれていましたが、そこは神官と「太陽の処女」の拠点であり、後者は女祭司「太陽の処女」になるか、皇帝の第二夫人になるために、国費で教育を受けた、もっとも純潔な娘たちの中から選ばれました。皇帝が女祭司の一人と「過ちを犯した」場合には、その事実を認めれば済みましたが、皇帝以外の者が同じ過ちを犯した場合には、誰であれ、相手と一緒に殺されました。
 神殿内では、太陽は擬人化された像と巨大な金の円盤によって表されていました。皇帝が太陽の息子であるとすれば、皇后は太陽の妹−妻である月の娘であり、神殿では銀製の擬人的な像の姿で崇拝されていました。インカ人は一般に、太陽暦と並べて太陰暦も用いていました。
 聖職者の位階の最高位には皇帝の近親者である大神官がつき、九人の男性貴族からなる会議に補佐されています。各地方ではワカの年老いた番人が宗教的な営みを司り、その視察のために数多くの神官が派遣されました。ワカの番人は、中央政府からの報酬を受けない自発的な神官でした。
 神殿が秘されていたので、占いや償いを目的とした動物供犠を伴う集団的な儀式が行われたのは神殿ではなく公共の広場においてでした。しかしながらもっとも効果があると考えられていたのは、10歳児の供犠です。身体的にも精神的にも完全であることを理由として選び出された犠牲者たちは、この場合以外は王族や血縁者、貴族にのみ開かれていた来世に送られることを喜びました。アステカ族やマヤ族の習慣とは異なり、インカ族においては人間の供犠はあまり行われません。戦争捕虜のうちもっとも頑健な者から選ばれた犠牲者たちが、アステカ人と類似した方法で生け贄にされることもありましたが、それは稀でした。
 インカの神官は、国家の政体から人体に至る健康に関連するあらゆることの管轄者であり、したがって供犠者、占い師、シャーマン的医師の働きを兼任していました。彼らは生け贄にした動物の内臓を詳細に調べ、そこから将来の予兆を解読しました。さらには、身体の不均衡を生み出し、病気の原因になっているとされる物体を吸い出すことで治療も行いました。指圧療法も行い、体の外側から手指を使ってはずれた器官を元に戻しました。また彼らは優れた外科医であり、穿頭術のような難しい手術を行うこともできました。
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