愛知県の歴史 (1)古代 尾張の古代社会−尾張国正税帳の世界− 
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尾張国正税帳の語るもの(1)−地域政治の実態−


 A断簡の最後の2行に正税穀と郡稲穀と両方書かれていますが、この部分が尾張国の天平6年度の正税帳の注目すべきところで、官稲混合を示す資料ということになります。簡単に言うと、当時はいろんな財源ごとに稲が設定されていたのですが、それをすべて正税というかたちに1本化したことをこの資料は示しています。正税帳という言い方も、実はおそらく天平6年以降にほぼ定着していくものと考えられています。それ以前の多くのものは、表1の中に帳簿名称の推定というのをあげておきましたが、大税帳(たいぜいちょう)とおそらく呼ばれていました。それがいろんな名目で設定されていた稲を全部正税に1本化するという方向に進み、その結果、正税帳という言葉が定着していくことになったと考えられています。
 他にも、例えば天平2年度の正税帳を見ますと、志摩国の百姓の口分田がなぜか尾張国にあるというのがわかります。それは『続日本紀』の神亀2年に伊勢と尾張の2国の田を志摩の百姓の口分に班給するというのがあり、それが実際に実行されていたことを示すものです。また天平2年度のものでは、尾張国に皇后宮職という中央の役所専用の田が設定されていたということもわかります。

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