愛知県の歴史 (1)古代 尾張の古代社会−尾張国正税帳の世界− 
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正倉院文書とは


 尾張国正税帳は正倉院文書として残っていますので、その正倉院文書について簡単にお話ししたいと思います。
 正倉院は天皇の命令がないと今でも開けられない勅封の倉で、その中に残ったのが正倉院文書です。これは本当に偶然に残ったものです。8世紀の東大寺写経所が、活動を少しずつペースダウンしていったある時期に、理由はわかりませんが、いらなくなった紙を正倉院に臨時に保管していました。それがいつの間にか倉が勅封になってしまい、中に閉じ込められてしまったわけです。その後、19世紀になって、正倉院の整理を始めた時に改めて再発見されたことになります。それまで誰も存在を知らないで、千年近くの間ずっと正倉院の中に閉じ込められていたのが正倉院文書です。
 どういった文書が残ったかといいますと、8世紀の東大寺の写経所の文書が残ったわけです。東大寺の写経所は、もともとは藤原光明子という聖武天皇の后の私的な写経所だったものが、その規模を大きくしていき、東大寺、造東大寺司という大きな役所の下につく写経所として存在するようになったものです。この時代の写経事業はひとつの大きな国家プロジェクトだったのです。正倉院文書は基本的には写経所で作られた事務帳簿ですが、当時は紙が貴重だったのでいらなくなった反故紙の裏を事務帳簿として使っていました。そのいらなくなった紙というのは、この時代の国家の命で作成された律令公文と呼ばれる公的な公文書として使われていたものです。有名なところでは大宝2年の御野国や西海道諸国(今の九州諸国)の戸籍、養老5年の下総の戸籍、その他に正税帳などがあります。そういった律令公文として最初作成されたものがいらなくなって、東大寺の写経所に払い下げられ、その裏を写経所の文書、事務帳簿として使われたというかたちで残ったのです。写経所の事務帳簿ですから、きちんとした形で書かれたものではなくて、書体も非常に読みにくいものだったりします。こういった写経所文書や律令公文の類、それから光明子のお役所である皇后宮職という役所、あるいはその写経所の上部の機関である造東大寺司の文書といったものが12000点ほど残っています。その他にも東大寺献物帳や正倉院にある宝物に付属して残った文書なども含めて、広い意味で正倉院文書と現在呼ばれています。
 江戸時代になって正倉院文書が穂井田忠友という人によって再発見されました。それは「正倉院文書」として正集45巻にまず製巻され、その後、続修50巻、続修後集43巻、続修別集50巻、続々修440巻2冊、塵芥文書39巻3冊と続き、現在では合計667巻5冊になって残っているというのが現状です。尾張国正税帳はその中のひとつということになります。活字としては「大日本古文書」というかたちで出版されています。毎年秋には、奈良の国立博物館で正倉院展という展覧会が開かれています。正倉院展にはたいてい正倉院文書が何点か出展されていますので、実際に本物の正倉院文書を見ることができます。  

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