愛知県の歴史 (3)近世 近世尾張の産業−瀬戸窯業の展開− 
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蔵元制度の廃止と商社設立

 染付焼の技法に九州からの技法を導入して、さらに蔵元制度の充実により商品がきちっと買い上げられ流通していくというシステムによって、瀬戸の窯業は発展してきました。しかし、蔵元制度も永久に続くわけではなく、尾張藩が無くなれば当然蔵元制度も無くなるわけです。その後は商社が設立されて、焼き物を扱う時代になります。瀬戸の場合は開港後の対応ということでいうと、通商条約の直後に、三井物産の前身の三井組のほうから輸出用の食器類を作ってくれないかという打診があります。今度は世界を相手に商売をやることになるわけです。
 やがて明治維新になり、版籍奉還、そして廃藩置県となって、尾張藩自体が無くなります。そして明治2年に、「諸職商売の自由」という御触れが出ます。どんな人がどんな職業に就こうと勝手だという法律です。江戸時代では百姓は百姓、農民は農民、武士は武士、職人は職人という形でしたが、その枠を取りはらって自由に何を営業してもいいという形に変わるのです。そういう中で焼き物業界も株仲間自体が無くなり、自由にどんどん参入されてきます。先程述べたように商社を作ってそれに対応していくという方向がでてくるわけです。それに関する「明治4年7月 瀬戸村竈屋より染付焼物変革に関わる商社設立規則書請書」という書付があります。これは明治4年に尾張藩が無くなって、従来の染付焼の蔵元扱いをやめるというものであり、商社として運営していくための規則書を竈屋に示して、竈屋がその規則書を承認したという請書です。規則書は別にあって発見されていないので具体的にどういうものか分かりませんが、考えるに、従来の蔵元制度の枠組みを残したまま、それを商社に切り替えて瀬戸の焼き物業界を再編していくという方向性があったのだと思います。しかし、新しい人々が窯業関係に参入して、それぞれが商社という形で凌ぎを削るという状況になります。そうなると今度、窯業関係者は組合を作ります。赤津村や瀬戸村などでは信用組合的な組織で竈屋達がまとまっていくのです。もともとの蔵元制度という形でまとまっていた竈屋集団は、実は商社という形では本当はまとまらずに、やっぱり窯業組合の形でまとまっていったのだろうという見通しを立てています。結局、色々な形に窯業者集団は変化していくのですが、商社化の促進という動きの中で従来の枠組みはどんどん変わっていかざるを得ないということです。

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