瀬戸窯業のルーツは、奈良時代や平安時代に大いに焼かれた須恵器(すえき)からつながりがあります。この須恵器は、5世紀頃朝鮮半島から渡ってきたと言われています。それから瀬戸の山周辺では、灰をかけて焼く陶器、いわゆる灰釉陶器(かいゆうとうき)が生産されます。その後、尾張の東部丘陵地域や猿投山などの窯跡から、ちょっと粗悪な日常雑器のような直径20センチ程度の山茶碗が出てきます。そういった山茶碗がこの近辺ではよく作られたと言われていますが、ただこの頃はまだ瀬戸という名前は有名になっていません。13・14世紀ぐらいになると、いわゆる「古瀬戸(こせと)」というものができて、これが中世の瀬戸窯業の本格的な展開につながってくるわけです。
「藤四郎(とうしろう)」という名前をご存知でしょうか。「加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)」という人物が、加藤の“藤”、四郎左衛門の“四郎”をとって「藤四郎」と言われています。瀬戸の人々にとっては、陶器を焼き出した“祖”ということで「陶祖藤四郎」といわれ、非常に神聖な存在なのです。「藤四郎」が中国から技法を持ち帰り、瀬戸で初めて釉薬(ゆうやく)を使った焼き物、いわゆる古瀬戸焼を伝えて瀬戸物が全国の市場に流れていったのです。つまり当時の中国・朝鮮は内乱状態だったので向こうから輸入品が入ってこないということもあり、その輸入品に替わるものとして国内のちょっとしたよいものが求められるようになり、瀬戸物が非常に国内を流通するようになったといわれているわけです。