愛知県の歴史地理―条里地割とその解釈をめぐって― 
もどる  目次へ  すすむ  
小規模な山間条里の世界

 次に、小規模な山間条里の世界についてですが、ここでは条里研究の新しい部分を紹介したいと思います。それはどういう点かといいますと、今までの条里研究は非常に研究がやりやすい場所から進んできました。研究がやりやすい場所というのは、条里がなるべく多く一面に広がっている場所で、非常に大規模なものです。そういうところから研究がよく進んでいったのですが、しばらくというか、ここ5年ぐらいに非常にミニサイズの条里、あるいは条里に似たようなものが、パラパラと残っているケースがあるということが指摘されるようになってきました。これは小さなマスメが、山奥に残っているというパターンもありますし、地名だけが残っているというパターンもあります。例えば、条里の四角いマスメが全然ないのに、○○条という地名がかなり山奥にポツンと残っていたり、○○が坪という地名が残っていたりと、そういうことが奈良県とか兵庫県の例で言われるようになってきています。
 ちょうど私が携わらせていただいています瀬戸市史の関連で、瀬戸市にもそういう例がありそうだということに気づいたので、それを簡単に紹介したいと思います。瀬戸市は昔の尾張国の山田郡という、今は無くなってしまった郡に含まれていますけれども、山田郡の条里は西側の方がよく残っているのですが、瀬戸市は一番東側にあたり、条里はあまりよく残っていなかったと思われていました。
 しかし、瀬戸の中の比較的標高の高い山間部に非常に小さな盆地があり、この盆地の中は地割の向きが整っているのです。非常に小さいこのような地割がなぜ作られたのか、なぜ残っているのかという文書による記録は一切残っておりません。残っていないために時代も特定できないし、誰が作ったかということもやはり特定できないのです。そうなるといろんな考え方ができるのですが、これは奈良時代、律令期に作られたものだという説もないことはありませんが、私の考えとしましてはもうちょっと遅いのではないか、「荘園」ないし、「荘園」に類似した組織ができた時に整えられたものではないかと思われるわけです。その他にも、灌漑水路とセットになって作られたと考えられる条里らしき地割の事例もあります。これはその場所に水田を作る、そのために灌漑水路を作るという、そういう土木工事を行うと同時に条里か、あるいは条里の考え方を取り入れた土地区画が採用されたのではないかと思われるわけです。また、山の中に一ノ坪という地名だけが残っていたりと、こういうポツンと孤立した小規模な条里というものが本格的な条里とは別に作られていたと、そしてそれは条里のシステムを利用してやや時代に遅れて作られたものではないかと考えられるのです。

もどる  目次へ  すすむ