愛知県の歴史地理―条里地割とその解釈をめぐって― 
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おわりに

 では、こういう条里地割はなぜ残ったのかということを最後にお話したいと思います。奈良時代、律令期に条里のスタートがあったとしても、その後性格を変えて受け継がれていた、中には非常に孤立して山の中に作られているようなものさえあったことを考えていきますと、条里が作られた理由はともかく、残されてきた理由、それを失われずに受け継がれてきた理由というのは、別のところにあるのではないかと思われるわけです。中世に条里を利用して守ってきたという営みがあったからこそ、現在残っていると考えなければいけないということになります。そう考えていきますと、尾張平野全体に広がっている条里地割にしても、計画自体が古代にあったとしても、その中で現実に地割を作ってきたのは、その土地を所有する、あるいは利用してきた人々であったにちがいないわけです。
 特に、「国図の条里」、あるいは「荘園の条里」という段階になりますと、○○条、○○里、○○ノ坪と『そこにあなたの土地がある』というように記録されたとすると、その記録にあわせて自分の土地を守っていく必要がでてきます。そうしますと、たとえ土地表示だけが先に与えられたとしても、その土地表示に合うように自分で四角いスペースを作って条里の形を整えていくという営みが、多かれ少なかれあったのではないかと想像できるわけです。
 そう考えますと現在残っている条里の景観というのは、単に古代の遺産というだけでなく中世を通じて受け継がれて、あるいは発展させられてきた非常に歴史の域の長い、厚みのある「景観」である。その多くは誰が作ったかという作り手、担い手の名前もさっぱり分からないですけれども、そういう無名の人物達が作った「景観」が歴史的な遺産として、現在残っていると思っていいのではないでしょうか。幸か不幸か、愛知県では開発が進んで条里地割はかなり無くなっています。なかなか身近にはありませんので、現在残っているところは潰さないで残してほしいと思います。

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