愛知県の歴史地理―条里地割とその解釈をめぐって― 
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研究の展開(1)

 ここでは過去35年間ぐらいの条里研究の流れを、愛知県に即してみていきたいと思います。
 初めに、1971年に『条里制の歴史地理学的研究』という本をお書きになった水野時二先生を紹介します。この水野先生の考え方を水野説とすると、水野説では主に濃尾平野の条里を研究されて、尾張の各郡ごとに統一的な条里が作られたということを示されました。それが図の3になります。
図3
図3 水野時二による海部郡の条里復原案
この1971年という年は、条里研究が始まって一段落ついたぐらいの年にあたるのですが、この尾張国以外(例えば大和国、河内国、讃岐国、越前国あたり)では、非常に条里地割がよく残っていたため研究が先進んでいて、郡を単位にして条里が別々に作られているらしいという結論に達していました。それを受けて尾張国でもやはりそうだろうと考えたのが水野説ということになります。
 この図の3では海部郡、つまり庄内川の河口の西側一帯に残っている条里の痕跡を辿っていって、全体として非常に広い範囲において、碁盤目のように条里の地割が残っているということを示しています。他の郡でもそれぞれこういった非常に広い範囲の条里が、統一的に作られたのだろうと水野説では考えたわけです。水野説の時点では、条里というのは「班田収授」のために作られたと思われていたので、尾張国に広範に統一的な条里が存在するということは、それだけ律令国家の支配力が尾張では強かったということの表れだろうと思われたわけです。従って、条里の残っているところは奈良時代か、それ以前から非常に開発が進んでいた場所だという見方が、一旦は水野説によって広まりました。この水野説は非常に分かりやすくきれいな学説だったのですが、その後しばらくして、どうも水野説のようなきれいな状態ではなかったのではないかという見方が広がってくることになります。
図4
図4 富田荘絵図(14世紀か)

 その1つの手がかりとなったのは、富田荘(とみたのしょう)と呼ばれている、やはり庄内川の河口の西側にあった荘園です。図の4、これは富田荘の絵図です。この絵図の特に中央部のあたり、“○○里”と書かれた四角いマスメが全部で12ヶ所、横に3つ、縦に4つあります。この“○○里”という言い方は、これは条里の表し方の一種で、○○条○○里という代わりにそれぞれの里に固有名詞を充てているケースにあたります。よって、この富田荘の絵図に写っているそれぞれの里は、条里のマスメであって、この1つの里の中に6町×6町、36の坪が入っているということになります。その坪にあたる地割は、最近まで割とはっきり残っていました。ただ、その残り方が非常に不思議な形になっていたわけです。
 富田荘の条里は、庄内川の三角州の中に残っているわけですが、海部郡の条里が東西南北きれいに方位に一致した正方位の条里であるのに対して、富田荘の条里は歪んでいます。ちょっと左側が曲がっているような状態で残っています。これは何を意味するかというと、この富田荘も海部郡にあたるはずなのですが、まず郡単位で統一的に条里が作られたという例外になるわけです。ななめになってずれてしまっているし、つながってもいないのです。水野時二説ではその例外に気づいてはいたのですが、これは例外ということでとりあえず片付けられていました。
 ところが後に、この富田荘の絵図の条里は、比較的新しい時期に作られたものだろうという結果がでてきました。庄内川の三角州の中なので非常に洪水に遭いやすく、土砂の堆積を受けやすい場所にあったわけです。そうやって作られた三角州の中に、古代の終わり頃になって作られたものである。つまり、この富田荘の条里は富田荘だけで独立して、「班田収授」とは関係なく作られたものだということになってきたわけです。
 そうすると条里というのは、基本的に奈良時代に全部作られたと安易に思われていたのが、全然そうではなく、平安時代の終わりというような遅い例があることがわかってきたのです。そうなると、律令国家が非常に弱まった時期であって、国家とは無関係な力によって作られたということにもなってしまうわけであり、条里というのは本当はいつ頃作られてなぜ残ってきたのかという、根本的な問題というか疑問が生じてくることになります。

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