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訴訟と内済


  次に、訴訟と内済ということをお話します。訴訟については説明はいらないと思いますが、内済について説明します。これは、平たく言えば、示談です。内々に済ましてしまうということで、これは、訴訟と示談というふうに読み替えてもいいのですが、江戸時代は、内済というようにいうわけです。村社会の談合体質とその批判について考えるというのが、この節のテーマです。何かいつの間にか決まってしまっている。談合して、入札価格とかそういうのはすでに知らされていて決まる。日本社会では、とにかく表と裏があるみたいで、どうも、正論でやっても仕方がないというような考え方があるのですが、それが、その村社会から本当に生まれたものなのか。村社会でも、内済とかそういうものをする時に、顔役みたいな人もでてきてやるのですが、それは、本当に談合だったのか。談合はいわゆる事前交渉ですが、事前交渉自体が悪いことだとは思わないのです。事前に、いろいろ情報を得ておく、交渉をしておくことは、いいことだとも思うのです。ただ、そこで、すべてを決定してしまうということなると、非常にまずいと思いますが、そういったところについて少し考えてみようということなのです。
 そこで、江戸時代の訴訟と内済のあり方はどうだったのかということなのですが、江戸時代は意外にも訴訟社会というぐらい、非常に訴訟が多いのです。特に多いのは、お金に関する訴訟です。これは、要するに、金を借りて返せないということです。不良債権問題は、今でも大問題ですが、これは、江戸時代も頻繁にあるわけです。そこでは土地を処分したり、家屋を処分したりとかいろいろ出てきて、江戸時代は、民事訴訟的な、あるいは、私法的なものが非常に発展します。しかし、基本的に民事訴訟というのは、相対(あいたい)で済ますことがお上の考え方です。金公事は、相対で済ますということです。あまりにも訴訟が多いので、相対済まし令というのが、8代将軍吉宗の時に出されます。“相対で”というのは、当事者同士で話し合いで決定しなさいということです。これは、お金の問題だけではなくて、それ以外の様々な入会だとか、そういう大変重要な争論についても、基本は相対で済ますということです。
 次に、内済についてですが、最終的には、示談に持っていくというのがお上のやり方になります。そして、内済は、地域の有力者が扱う場合が非常に多いのですが、これは、郡中惣代をやるような人たちが、内済の扱い人となる場合が非常に多いのです。それでは、単なる顔役による支配かというと、そうではありません。そこで、内済過程を見てほしいのです。内済過程というのは、徹底した証拠主義です。今だったら適当にお金を積んで、これで無しにしようとかいうような怪しげな示談とかが出てきたりしますが、そういうものではありません。この示談というのは、示談でありながら、きちんと裁判所で審議するようなことをやっているのです。幕府とか、お上、大名の方は扱わないのですが、その前のレベルで扱います。そして、訴訟のプロといいますか、そういう訴訟について検討する民間業者の人たちがたくさんいます。証拠主義と訴訟のプロの存在ということでは、公事宿(くじやど)・郷宿(ごうやど)というものが挙げられます。
 そこで、江戸の公事宿についてお話します。江戸には、御用懸り旅人引請宿という、いわゆる、公事宿があります。宿屋にはこの公事宿と一般旅人宿という一般の人が泊まる宿屋があるのですが、ある資料では、これら2つの合計206のうち、105、半分以上が御用宿です。御用宿というのは、訴訟に関係しているものです。とにかく江戸というところは、政治や経済の中心であり、そういう巨大都市であって、幕府があり、それに関連する役所があり、寺社奉行所があり、勘定奉行所があるという中で、訴訟に出向く人がたくさんいるわけです。訴訟関係者というのがたくさん集まってきます。その人たちは、ずっと宿泊していなくてはいけません。それで、宿屋に泊まるのです。必然的に宿屋に泊まるのですが、その泊まった宿屋の主人とか、あるいは、そこで働いている人というのが、交渉のプロなのです。きちんと文字も書けます。今の裁判所のいろんな記録なんかも、非常に細かくて大変長いものですが、そのようなものを克明に書き上げていきます。そういう能力を持った人がいます。捜査能力といった警察的な能力があるかどうかわかりませんが、そういうのを調べ上げる能力があります。公式の文書を作る能力があるプロが、公事宿とか、郷宿と呼ばれるところにいるのです。そして、請け負ってやる場合もあるし、指導する場合もあります。そういう宿屋が、たくさんあるのです。これが、本来裁判所が行う業務というのを代行してしまいます。そして、郷宿というところで、内済になるか、あるいは、今で言えば、最高裁にあたる幕府の評定所まで持っていって、本当に裁判をやるのか、差し戻しをして、示談で済ますのかというようなことをやり取りします。
 また、大坂にも郷宿があります。大坂は、江戸ほどは多くありませんが、18世紀の半ばぐらい、あるいは、18世紀の後半は、30から40ぐらいの郷宿というものがあります。郷宿は、大坂とか江戸だけではなく、代官所がある所とか、城下町とか、たくさんとは言いませんけれども、そこには必ず複数あって、訴訟にきた人たちを泊めてあげて、そして、訴訟のやりとりの手ほどきをして、文章を作ったり、作らせたりするということをやっているのです。民間社会というものの一つの代表として、公事宿、郷宿というものを挙げましたが、民間社会の実力というのは、非常に高かったのです。公共的な場で行なわれるべき公共的な業務、仕事を代替するということがあったわけです。
 更に、代言人ということについてですが、代言人というのは、明治以降、弁護士という呼称になるわけです。弁護士制度というものがきちんと定着していきますが、それ以前は、代言人と言われていたのです。のちにそう呼ばれる人たちが、郷宿、公事宿に出入りして仕事をしていたということです。ですから、西洋の制度というものが入ってくる以前、近代的な諸制度が入ってくる以前に、実は、日本の民間社会では、西洋の制度と非常に似通った形が存在し、後は、西洋の制度を受け入れて、それを編成するだけでつながっていくような所まで、実力が進んでいたと理解していいのではないかと思います。もちろん全てそうであるとは言えませんが。
 ただし、全てが民間の力で民主的に行なわれたわけではありません。江戸時代は、そんな甘いものではありませんし、当然、領主制、身分制社会でありますから、その中で、庶民が政治の表舞台に立つということは、非常に難しく、不可能に近かったのです。ただし、明治維新以降は、今度は、武士階級でない人たちが表舞台に出てくるわけですが、その時に表舞台に直ちに立てるように、そのぐらいの訓練を受け、教育を受けたという実力が民間社会にあったのです。武家社会は、それなりの実力が当然ありましたが、ある部分では、民間社会の方が非常に豊かであるという場合もあります。これは、先ほどの郡中惣代や惣代庄屋とかいわれる地域のリーダーたちがいるのですが、そういった人たちは、すごい教育を受けています。お金もあります。いわゆる、豪農といわれる人たちなんかの実力は、非常に高いわけです。次の時代の主役になれるほど、村社会は成熟していました。豪農層の経済的、政治的、文化的実力は非常に高かったのです。
 そこで、話を訴訟と内済の方に戻しますが、訴訟の最終局面というのは、だいたい江戸です。これは、本当に、最後まで裁判をやり抜こうとすれば、江戸の評定所まで行きますが、そうすると、経費として、非常に莫大なお金がかかってしまうわけです。今でも、裁判をするとお金がかかるというのは、皆さんご存知だと思いますが、どうしても、それを村で負担するというのは、辛い面があります。村の財政というのは、非常に貧困といいますか、ひっ迫していますので、訴訟をやった場合には、特別会計というのを組んで、全然違う形で運用しなくてはいけないというぐらいのものです。これをやって、庄屋の家が潰れてしまったということはいくらでもあります。ですから、内済のことを下方(かほう)示談というふうに言いますが、下方示談というのは、お上の方まであげないで下のほうで示談にするという意味で、江戸時代の表現ですが、こういう内済=下方示談は、非常にリーズナブルで、道理にかなった対応であったということです。そして、いい加減にではなく、きちんと訴訟を行っていました。現実に即応し、道理にかなった活動をしていたということが、訴訟と内済においては言えるのではないかと思います。

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