日本古代文学から見た国際文化−額田王の歌の背景− 
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『日本書紀』から見た国際情勢


 この時の国際情勢の動きを年の順にまとめると、つぎのようでした。
660年 百済が滅ぼされた 
661年 日本の朝廷は、百済を救うために軍を派遣 
663年 白村江の戦いで敗れる

 『日本書紀』 天智二年(663年)
 「三月やよひに、前將軍まへのいくさのきみ上毛野君稚子かみつけののきみわかこ間人連大蓋はしひとのむらじおほふた中將軍そひのいくさのきみ巨勢神前臣譯語こせのかむさきのおみをさ三輪君根麻呂みわのきみねまろ後將軍しりへのいくさのきみ阿倍引田臣比邏夫あへのひけたのおみひらぶ大宅臣鎌柄おほやけのおみかまつかつかはして、ニ萬七千人ふたよろづあまりななちたりて、新羅しらぎたしむ。」
 日本書紀によると663年に日本の朝廷は2万7千の海軍を出しています。
 唐と新羅とが連合して百済を滅ぼした。そこで日本朝廷は唐・新羅と戦うために、船を出しました。この当時に、2万7千人の海軍を出すのは財政的にも人員的にも大きな負担だったと思います。その戦いに敗れた後に、つぎの記事があります。
 『日本書紀』 天智三年(664年)
 「是歳ことし對馬嶋つしま壹岐嶋いきのしま筑紫國つくしのくにに、さきもりすすみとをく。又筑紫に、大堤おほつつみきて水をたくはへしむ。なづけて水城みづきふ。」
 この歳に對馬嶋(九州の少し北より)、壹岐嶋、筑紫國(太宰府の辺り)で、そこに防(さきもり)=防衛の軍と烽火(のろし)を置きました。そして筑紫に大きな堤を作り水を蓄え、水城といいました。これは後の時代で例えれば、名古屋城の回りに大きな堀をもっていたような感覚で理解したらよいと思います。
 これは戦争に負けたため唐と新羅との軍が朝鮮半島を通って日本へ攻めてくることを日本の朝廷が警戒したのだろうと推定されます。また、瀬戸内海沿いに城をいくつか作っています。今でも城の備えや遺構、遺跡がいくつか出てきて、朝鮮式の山城だったといわれています。
 朝鮮式の城が作られたのは、当時の軍事技術は朝鮮半島が進んでいたからです。それを他にも取り入れたことが日本書紀に次のように記述されています。
 『日本書紀』 天智十年(671年)
 「是つきに、大錦下だいきむげて、佐平余自信さへいよじしん沙宅紹明さたくぜうみやう法官大輔のりのつかさのおほさすけぞ。にさづく。小錦下せうきむげを以て、鬼室集斯くゐしつしふし 學職頭ふみのつかさのかみぞ。に授く。大山下だいせんげを以て、達率谷那晋首だちそちこくなしんしゆ 兵法つはものならへり。木素貴子もくすくゐし 兵法に閑へり。憶禮福留おくらいふくゐ 兵法に閑へり。答ほん春初たふほんしゆんそ 兵法に閑へり。ほん日比子賛波羅金羅金須にちひしさんはらこむらこむす くすりれり。鬼室集信くゐしつしふしん 薬を解れり。に授く。小山上せうせんじやうを似て、達率徳頂上たちそらとくらやうじやう 薬を解れり。吉大尚きちだいじやう 薬を解れり。許率母こそちも 五經ごきやうあきらかなり。角福牟ろくふくむ 陰陽おむやうならへり。に授く。」
 天智二年に負けた後に、日本の船が佐平余自信、以下百済の人々らしい人たちを連れて日本に向かったことが記されています。これは百済の人々の中で、特に貴族、官僚たちが、何らかの技術を持って日本に亡命してきたのだろうと思います。この人たちの持っている技術や助けを借りながら軍事的な備えを固めていった。あるいは朝廷の組織を整えていった。そのために日本は亡命を受け入れたのでしょう。そして、その朝鮮の人たちを優遇したということが、さきの671年の記事に記述されています。
 その記事に、佐平余自信、沙宅紹明という人の名前が並んでいます。この名前から判断して日本語を母語としていた人だとは考えにくく、百済系の朝鮮系の人々だと思います。この人たちは、法官大輔という法学関係の仕事に就いています。学識の頭は学問の関係です。2行目の方に記されている人は、兵法に詳しかったと記述されています。3行目にも続く3人も兵法に詳しいと記述されています。軍事技術を持っている人たちをここで朝廷の中に正規に取り入れているのです。4行目の3人は薬(医学関係)のことを知っていた人たちです。5行目にある五經は学問の関係、儒教関係です。そして最後に陰陽の関係の人たちです。
 軍事技術の必要性、薬の必要性が、非常に意識されていたことが知られます。

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