日本古代文学から見た国際文化−額田王の歌の背景 
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朝鮮半島の3つの王国・唐と日本との関係


 さて、661年前後の時代、この斉明の御船が、熟田津に来ているという問題から国際情勢の問題に入ります。
白村江の戦い
白村江の戦い(663年)
 朝鮮半島には7世紀の始め、もう少し前から百済と新羅と高句麗という3つの独立した王国がありました。中国大陸には、少し前には隋、そしてこの頃には、唐という大きな国がありました。この朝鮮の3つの王国・唐と日本との関わりかたの中で8番の歌が詠まれたのだろうと思われます。具体的には、日本書紀と中国、朝鮮に残っている歴史書を考え合わせると、次のような情況だったようです。641年に百済と高句麗とが新羅を攻撃した。この熟田津の歌の20年前です。攻められた新羅は唐と同盟を結び、百済と高句麗とに対抗します。独立王国間の戦争です。日本の朝廷は百済との関係が深かった。そこで日本の朝廷は、この百済を救うために661年に軍を西へ派遣した。
 このような軍事関係を日本が結んでいる最も大きな理由は、朝鮮半島の進んだ文明が欲しかったからです。すなわち朝鮮半島の3つの王国は、日本よりはるかに早く文明を取り入れて、進んでいました。日本が中央集権の国家を建てていく過程で、この朝鮮半島及び中国の進んだ文明、高度技術がどうしても必要だったのです。
 1つの例は、「文字」の問題です。私たちが辿ることのできる一番古い文字は、行政的な文書に用いられた文字です。文学的な側面が出てくるのは7〜8世紀ですが、それ以前から文字は使われていました。必要がなければ文字は多分入れなかった。この必要性は、文明開化のためだった。税金関係、社会の仕組みを作っていくために文字を取り入れたのです。1500年前に文字を勉強するというのは、大変負担が大きかったと思いますが、それをあえてしたのは、税収を記録することによって、正確に税を取ることができるからです。この形で政治的な仕組みが効率的に仕組まれていきます。軍事的な規模も大きくすることができます。私たちが記憶することができる村の名前とか、そこに住む人たちの名前とか、誰が何歳で、何処からどれだけの税金が取れるかなど、覚えるのが不可能なことを文字にしていく。それを直接知らなくても、記録の上で辿っていけます。文字を取り入れることによって、仕組みを整えていくことを日本の朝廷は目指したのだと考えられます。
 だから日本の朝廷はこの国際情勢の中で、百済の救援に出て行った。その背景で8番の歌を読んでみると歌の位置付けがはっきりするでしょう。
 「御船西つかたにき」
 百済を助けるために熟田津から海軍を出そうとして月を待っていると潮もかなった、軍船が今出て行くことができる、という意味らしい。
 何故このような時に額田王が歌などを詠むのか、これは、この当時の7世紀中ごろの歌の働き方を少し考えに入れていかなければならないでしょう。
 この時代に歌は、日常の言葉の使い方とは少し違う何か特殊な言い回しでした。特殊な世界との関わり、すなわち神との関わりを求めた時に、歌という日常の言葉と違う特殊な言い方をしたのでしょう。この当時の戦とか、政治事では、神にお願いして成功を願うとか、善い事の保証を願う歌い方が見られます。この8番の歌も海軍の戦勝祈願を込めて、この歌を額田王が詠んだと考えるのが、この歌の働きの理解になるだろうと思います。

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