家庭教育啓発資料「父と子」 
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調理師の特別授業

 近くの中学校から私の所に、突然の協力依頼がありました。「調理師になるためにはどうしたらよいか」というテーマで、三十分ほどの講義をしてほしいというものでした。
 私は現在、地元に戻って料理店を開いています。腕には自信がありますが、落ちこぼれだった私にとって、学校というところには二度と縁がないだろうと思っていましたから、まさかこんなことになろうとは夢にも思いませんでした。逃げたい気持ちでしたが、息子が世話になっている学校の依頼では、簡単に断れません。
 さらに、子どもたちに何を話したらいいかという大問題については、どう考えてもまとまりません。質問に答えるだけだったら、どんなに楽なことかと思えてきます。昔の私だったら、とっくにギブアップしていたことでしょう。考えても始まらない、私の修行時代の話でも聞かせてやるか、という結論に至り、腹はすわりました。
 教室に入ると、生徒が一斉に私を見ました。一瞬で、頭の中は真っ白になってしまいましたが、思い切って話を始めました。チョークを持って、「この色は何色か、誰か答えてくれないか」と聞きました。当然、全員が「白です」と答えました。そこで、私の修行時代には、親方が黒と言えば黒が正しいという理不尽な世界があったことを伝えました。そして、それが職人としての初めの儀式であったことを付け加えました。
 それから後は、次のようなことを話しました。料理は、素材とその調理方法ですぐに結果がでてしまう真剣勝負であり、素材を活かすための下ごしらえが大変である。しかし、万人に合う味付けはありえない。最近はテレビ放送に料理番組が多く、ブームとなっているけれど、一期一会の気持ちが大切である。職人は腕で勝負するというけれど、ただそれだけではない。今では、道具を使うにもその勉強をしなければならない、などの内容です。最後の話は、みんなと同じ年ごろで高校を中退したため、その後の人生では大変苦労したことでした。また、余談でしたが、嫁さんをもらう時に苦労した話が一番うけたようでした。
 どうにか話も終わり、生徒に感想を聞いてみました。 「まだ、職業について真剣に考えたことはありませんが、おじさんが苦労して職人になったことがよく分かりました。これからもがんばってください」 生徒たちの真剣な瞳が、私を見つめていました。
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