横浜の寿町について
私はこの大学に来る前、横浜で31年間ソーシャルワーカーとして働いておりまして、その最後の6年が寿町というドヤ街でした。私が行ったとき、初めてそこに女性ワーカーが入るということになったんです。それまでは非常に危険だということで、男性のワーカーのみだったんですけれど、私のようなベテランはそういうところに行ってくださいということになって、私もおっかなびっくり行ったんです。6年そこでじっくり観察して、私が得たものは非常に大きいものでした。
横浜の特徴というのを私が簡単に説明しますと、寿町という、ベッド数として約1万人くらい用のドヤ街、寄せ場があるということですね。それがひとつ大きな特徴で、それからもう一つ大きいのは、横浜は、生活保護法をドヤ街に早い時期から実施したことです。それに加えて、援護対策課というのも私が入った頃からありまして、生活保護法外の法外援護として、パン券やドヤ券という現物給付、それ以外にいろんな医療サービス、医療扶助だけを単独で出すというような、現行の制度を非常に積極的に使っていく都市だったんですね。それは一つには、寿町というところは、寄せ場、つまり労働者の町で、彼らは日雇いですし、横浜港湾の労働者を中心にした、社会にとってものすごく重要な労働市場だったからです。戦後、華々しく占領軍が一時接収した後に、韓国人の方によって、設置されたドヤなんですけれど、たいへん重要な労働力の供給基地だったんですね。日雇い労働者というのは要するに、日々失業するという雇用形態であるわけです。仕事がないときは、何らかの形で援助するということになります。だからある日は労働者であり、ある日は福祉の援護を受ける人であり、と日々彼らは変わっていくわけです。そういう構造を抜けて、横浜市の社会福祉のサービスというのはできあがってきたというところがあるんですね。
もう一つ自慢させていただければ、横浜はもう35年くらい、社会福祉職という専門職を採用しておりまして、約900人のソーシャルワーカーが社会福祉関係、現場の衛生局、福祉局全部に配属されております。この人的資源は、私が今回名古屋に来て、社会福祉の現場を見せていただいて、圧倒的な違いがあると思いました。人間の問題に立ち向かっていくという職業的なアイデンティティ、それが苦しくとも自分の仕事であるというアイデンティティを横浜のソーシャルワーカーは明確に持っています。いろんな研究会も行われていて、組織は人を育ててきました。
ところが名古屋ですと、福祉事務所の生活保護課に配属する人を集めるのが毎年大変なんだそうです。そういう現状が横浜と非常に違います。
横浜でも路上生活者といわれる人たちはいますけど、寿町というドヤ街を核にして、そこに流入したり、そこから流出したり、あるいはその周辺に流れ出ていく一群の人々がいる。しかし多くはこのドヤの中に入っていく。ある意味ではドヤの中に住むということによって、生活保護を受ける要件が生まれてくるという不思議な構造になっているんです。
でも実は夏になりますと、ドヤは最悪の状況で、夜はゴキブリが缶詰にいっぱい入るくらい入ってくる。ドヤ券を渡すといっても、「あんなところに泊まるんだったら、外のほうがよっぽどいいよ」と答える人がいるくらいですし、「前の晩に泊まった人の吐いた反吐がそのままの布団に寝るんだ。そんなところに泊まれるか」とよく言われました。ですから、状況はシカゴの『ホーボー』に書いてあるのと同じですね。そういう状況があって、彼らは夏はドヤを出て、例えば横浜スタジアムとか、山下公園とか、野毛とか、横浜市庁舎へ行きます。福祉事務所の目の前が横浜市庁舎なんですね。夕方になりまして暗くなってきますと、ダンボールを持った人たちが1階を囲みます。市役所は排除しませんね。しかし観光地ですので、朝私が出勤するときには、それが綺麗に片付いています。ガードマンが朝回ってきて、片付けろと言われて、片付けて、そしてまた夜暗くなると、そこにダンボールで皆が泊まる。これを繰り返していくのですけど、少なくともドヤで寝るよりも、夏はずっとあの方が快適なんだって、よく私も教えてもらいました。
私の勤めていた中福祉事務所というのは、そのセンターみたいな形でした。日々、ドヤ券、パン券、生活保護の申請を受けるところに、面接の担当のワーカーが10人くらいいて、そこに1日千人を超える人々が入ってきました。朝、その順番を争って殺人が起きるという状況が、私のいる時代(1998年頃)にあったほどです。順番はすでに夜のうちに取られているんです。夜、例えば私が残業して、8時か9時くらいに、ビルの裏のドアを開けますね。そうしますと、すでにそこに長縄等の順番を取るしるしがありまして、そこには3つ4つ、これがおれの順番だぞというサインが置かれている。それほどまでに、1枚のパン券を獲得するために熾烈な競争があるのか、他にすることがないから、そのことにエネルギーを費やしているのかわかりませんけど、そういう厳しい現実がありました。
そういう人々をホームレスと呼んでいいのか、というと私はやっぱり何か少し違うといつも思っております。ホームレスの概念というのは非常に広くて、例えば今日本では、精神病院に35万人くらいの患者が入院しています。この人たちは、非常に長期に入院していて、ほとんど家族なんかがいなくなっている。この人たちはホームレスなんですね。あるいは、ドヤというのは、日々宿泊する簡易宿泊所ですから、寿町のドヤにいる1万人はホームレスなんです。実際そこに20年も30年も、小さな2畳3畳でも、自分の家を作り上げていきますから、もちろん一つのホームではあるんですけど。ホームとは何かというとなかなか難しいんですけれど、少なくともドヤ街、あるいは病院に入院している人たちは、ホームレスという社会的分類があるとしたら、そこに入れることができるだろうと思うんです。目に見える、路上にいる人だけをホームレスと呼んでしまうことには、いろんな矛盾があると私は思っております。例えば生活保護を適用されるのが、だいたい全国平均7パーミル(千人につき7人くらい)といわれている時代に、寿は約90パーミルというのですから、千人のうち90人が保護を受けているという状態になっていて、ここにたいへんな公費が投入されています。同時に、やはりお金を出していく社会福祉の功罪というのは、非常に複雑なんですね。お金を出していく、生活保護を適用していく、私はそのことの矛盾の真っ只中にいました。それをどういうふうに整理していいのか、簡単には整理することはできないと私は今も思っております。非常に複雑で、一つの結論が出せないのですけれども、私は人間とは非常に複雑なものだと、それを見てつぶやくくらいに今はしているんです。国も今は制度化を検討し始めていますけど、制度の中に人間を組み込むということは、やはりいろんな矛盾も組み込むことになります。そのことを覚悟しつつ、やっていかなければならないと思います。