「ホームレス」という言葉は、アメリカでも80年代ぐらいから使われるようになりました。日本では1999年2月に国が「ホームレス問題連絡会議」を立ち上げましたが、それ以降「ホームレス」という言葉が国レベルでも使われるようになりました。
「ホームレス」という言葉が使われるようになる以前はあまり可視化していませんでした。ではホームレスの方々はどこにいたのでしょうか。全くいなかったのでしょうか。実はいなかったわけではないのです。わずかですが、私たちの目の触れないところで生活していました。
皆様は「寄場」という言葉をご存知でしょうか。各都市には、労働者の供給源となるような溜まり場があります。そこに行きますと簡易旅館や酒屋さん、食堂、地下足袋・作業服を売っているお店などがあります。近くに労働出張所があり、早朝に日雇に借り出されていく。その人たちが生活をする町があったのです。日本の寄場の一番北はどこかと言いますと、東京の山谷なのです。東京の山谷、横浜の寿、名古屋の笹島、大阪の釜ヶ崎は日本の4大寄場と言われています。しかし、特に名古屋の場合ですと笹島というのは戦災で完全に焼失をし、見回してもほとんど面影がないような状態になっております。寄場では、周辺の公園にたむろしていたり、路上で寝ていたり、遅くまでたき火をして暖を取ったりというような風景が見られました。しかし、90年代の初め頃から日本の経済は大変不況になり、景気が低迷して参りました。そのことによってさまざまなひずみが起きてきました。そのひずみによって大勢のホームレスが生み出され、社会問題化してきました。
今最もホームレスの多いところは大阪です。私は大阪の釜ヶ崎にごく最近行って参りました。釜ヶ崎というあいりん地域に一歩足を踏み入れますと、少し様子が違うなということがよくわかります。大阪は釜ヶ崎という寄場だけではなく、周囲の公園にもたくさんの方がおられます。先ほどお話しました長居公園にもかつては500名〜600名の方がおられました。更に大阪城公園には700名のテントがあります。大変立派なテントもありました。しかもそこには自治会ができているのです。みんなで炊き出しをしたり、夜回りをしたりしているのです。私が自治会長の方に会いに行ったら、名刺をいただきました。
可視化する前は、私たちは寄場を中心としてホームレスの姿を見かけていたのです。しかし、90年代の初めから数が大変多くなってきました。少しずつ寄場から公園や駅周辺、あるいは河川敷といったところに生活をするようになってきて、今や全国に2万4千人という数が確認されています。この数は大変増えてきているのですが、大都市ばかりではありません。中核都市にも増えてきているのです。実は中核都市の中で日本で1番ホームレスの多い都市は、大阪府の堺市です。その次に多い都市は、愛知県の豊橋市なのです。
私はこのような人たちと接するようになり、この人たちがなぜこのような状況にあらねばならないのか。この人たちの福祉や人権は一体どうなっているかということに大変関心を持つようになりました。名古屋市の調査を行って、ホームレスの実態はどうであったのかということを、皆様に説明していきたいと思います。