“精神病者”の権利はなかったのか?―ヨーロッパ精神医療史の落穂拾い― 
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日本の精神医療史


橋本先生  それでは、本題にやや近づいて、わが国の精神障害者の人権といった場合に、このイデオロギー性とどう付き合うかという問題を論じていきたいと思います。
 わが国の障害者の処遇を定めた最古の記述は、701年の大宝律令に始まるといわれています。ただしこの大宝律令は散逸しておりまして、内容が大体同じと考えられている、養老律令(718年)というのがあるのですが、ここで、障害の程度が3段階に分けられています。程度の軽い順から、残疾ぜんしち癈疾はいしち篤疾とくしちとよばれ、今日で言うところの知的障害は、中度の癈疾に、それから精神障害は重度の篤疾に分類されています。それから癈疾と篤疾は不課ふくわといって労役が免除されています。それから篤疾にはという看護人もつけられることになっています。しかしこの大宝律令、養老律令に基づいて、奈良時代にすでに精神障害者に対する人権思想が芽生えていた、とするのは、ちょっと善意に解釈しすぎだと思います。そもそも律令というのは「儒教的な道徳社会の実現を理想に掲げた法体系」であって、障害者の福祉社会の実現を意図したものではまったくないからです。
 別の例を挙げてみたいと思います。わが国の精神医療の近代化に貢献した、東京帝国大学教授の呉秀三という人がいますが、彼が樫田五郎という人と共著で刊行した、『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』(1918年)は、いわゆる座敷牢に暮らす精神病者の生活状況をリアルに描き出したもので、この私宅監置制度を批判して公立精神病院の設置を訴えたことで非常に有名です。そしてこの論文に書かれた、「我邦十何万の精神病者は実に此病を受けたるの不幸の外に、此邦に生れたるの不幸を重ぬるものと云ふべし」というフレーズは繰り返し引用されます。しかしこの時代の精神医療の状況を、「精神病者の権利擁護がなされていない」という文脈で捉えることは果たして可能なんでしょうか。やや意地悪な見方をすると、当時の知識人の特徴でしょうけど、しばしば遭遇するのが「欧米文明国」対「此邦(つまり日本)」という露骨な図式で物事を捉える呉秀三の記述です。たとえば、「何故に癲狂院てんきょういん(※今の精神病院)の設立に躊躇するや」(1906年)という呉秀三の論文があるんですけども、その中で呉は、精神病院の設置に関して、「多少の設備がなくしては、文明国として強大国として、他にあわす顔色がなからう」と述べています。その前の年の1905年には、日露戦争があって日本が勝っていますが、当時の国内の高揚感というものに呼応しているのかもしれません。しかし、繰り返し言うように、この『精神病者私宅監置ノ実況及ビ其統計的観察』の“さび”の部分、「此邦に生まれたる不幸」というフレーズですが、元の本にあたってみますと、その前の文、「欧米文明国ノ精神病者ニ対スル国家・公共ノ制度・施設ノ整頓・完備セルニ比スレバ、実ニ霄壤月鼈しょうじょうげつべつ」ということを言っています。霄壤月鼈というのは「天と地」「月とスッポン」という意味です。そういう言葉から、「此邦ニ生マレタルノ不幸」が導き出されてきます。確かに人道問題にも言及しているんですが、決して世界人権宣言で唱えられているような精神病者の普遍的な権利を主張しているわけではありません。あくまで「欧米文明国」との対比において、「此邦」、すなわち日本の惨めな状況が理解されているわけです。そもそも呉秀三に、われわれのイメージする「精神障害者の人権」を期待するのは酷というものだと思います。

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