『人間喜劇』含まれている小説のほとんどには、お金の話が絡むのですが、ややこしい解説は後回しにすることにいたしまして、今度は経済活動が主なテーマになる小説を二つご紹介します。
『セザール・ビロトーの隆盛と凋落の物語』という小説があります。1837年に出版されています。物語が進行する時代は、1818年11月末から1823年初頭頃、まじめな商人が財テクに失敗する話です。地上げに手を出して、だまされて、破産するのです。
主人公セザール・ビロトーは、パリで化粧品の販売製造業を営む商人です。年は39歳です。事業は順調であり、夫婦仲は非常によろしい。一人っ子の娘セザリーヌは18歳。もうそろそろ結婚を考えねばなりません。
『ゴリオ爺さん』を紹介したときには、上流階級の結婚の説明をしましたので、今度は『人間喜劇』で描かれている、商人の結婚の代表的なパターンを説明します。結婚生活というのが、バルザックの小説の重要なテーマなのです。19世紀の初め頃には、商人の娘が教育を受けるということはありませんでした。教育を受けたとしても、刺繍の仕方、歌の歌い方、水彩画、ピアノの初歩程度です。しかし読み書きと計算ができなければなりません。男性は少年時代に住み込みの店員になります。要するに丁稚です。仕事ができ、人物もしっかりしておれば、そのうちに番頭になれます。ビロトー家のように、娘しかいない場合は、通常は一番しっかりした番頭と結婚し、将来は店を継ぎます。仕事には分担がありまして、あまり大きくない店でしたら、奥さんが会計をし、帳簿をつけ、住む込みの従業員の面倒を見ます。たいていの場合、夫婦仲はよろしい。そうでなければ店をやっていけないのです。跡取り息子のいる商店で働いている番頭はどうするのか。うまくいけば他の商人の娘と結婚します。このときお嫁さんは持参金を持っていきます。そして本当にうまくいけばの話ですが、番頭はそれまでに貯めたお金と、お嫁さんの持ってきた持参金を合わせて、それを元手にして独立します。一緒に働いて店を維持していかなければならないのですから、商人の結婚の場合は、恋愛結婚ではないにしても、一緒に働いていける程度には、お互いに好意をもっていなければなりません。日本の見合い結婚程度には相手を選べたということです。貴族や上流階級の結婚とは少し異なります。単純にいいますと、財産が少なくなるにつれて、結婚相手を選ぶ自由が増えるということです。
セザール・ビロトーは娘の結婚については少し野心があります。商人と結婚させるのではなく、社会的地位の高いある種の役人と結婚させたいと思っています。そのためには相当の持参金が必要です。自分が商売から身を引いたあとの引退生活も、もう少し羽振りのよいものにしたいと考えています。今日から見ますと、39歳で引退後の生活を考えるのは、いかにも早い気がしますが、これは200年ほど前の話でして、人生50年という時代です。
そのときある人が次のような儲け話を持ち込んできます。パリのマドレーヌ近くにある土地を4億円で買い集めて、3年後に売り出すと4倍に売れるだろうというものです。要するに地上げでして、土地への投機です。ビロトーはこの話に乗ります。半分を引き受けて、2億円を出資することにします。知人に声をかけて5000万円を出資してもらうことにして、残りの1億5000万円を自分で用意します。その内訳は次の通りです。
これまでの蓄え | 5000万円 |
工場のある土地を担保にする借入金 | 2000万円 |
手元にある受取手形 | 1000万円 |
銀行からの借入金 | 7000万円 |
以上です。
ところがこれまでに蓄えた5000万円を、間に立った男に土地購入のために預けてあったのですが、その5000万円を持ち逃げされてしまいまして、土地の購入がうまくゆかなくなります。借金の返済に困り、結局は破産してしまいます。資金繰りに困ったビロトーが銀行に行っても、適当にあしらわれ、たらい回しにされ、ついには病気になります。破産すると、管財人が選ばれ、債権者会議が開かれ、事業が清算されます。この小説はある商人がどのようにして破産し、破産処理がどのようにして行われたかを、数字をあげて、事細かに書いたものです。普通この小説の読者は数字を読み飛ばすのですが、そのようにして数字に関心を払わずに、ストーリーを追って読んでゆきますと、実に感動的な小説です。この小説は、丹念に数字を拾って読んでいきますと、少し矛盾があります。しかしそのような読み方をする読者はまずいないでしょう。私はこの小説は、倒産というものをテーマにした世界最初の小説であると思っています。
この当時のフランスでは、商人が破産すると、裁判所から商売をする権利を剥奪されました。ビロトー家の3人は、それぞれ別々に住み込みで働いて、収入のすべてを債務の返済に充てまして、数年がかりで債務を完済します。裁判所はビロトーの商人としての復権を認めます。
ビロトーにはポピノという若い番頭がいました。ビロトーの土地投機の直前にのれんわけをしてもらっています。元番頭のポピノは、ビロトーを徹底的に助けます。実はポピノとビロトーの娘セザリーヌは以前から相思相愛の仲なのです。父親の破産のあと、セザリーヌは小間物屋の店員になり、住み込みで働き、店長のような地位について、収入のすべてを父親の債務の返済に充てます。そしてポピノには、債務の完済の日まで結婚を待ってほしいと言い張ります。債務の返済が意外に早かったのは、ポピノの商売がうまくゆきまして、結婚を急ぐポピノが、債務の返済に協力したからです。そういうわけで、裁判所からの通知と同じ日に二人は結婚します。その夜、債務の完済と結婚を祝うパーティの席上で、ビロトーはうれしさのあまり、感動の度が過ぎてしまい、倒れて息を引き取ります。