「ゴリオ爺さん」を読む(二)
さてゴリオ爺さんが下宿屋ヴォケー館に住み始めた頃は、まだ手元に残した財産がありました。ちょっとここでこの下宿屋の建物の構造を説明します。パリの伝統的な集合住宅は、通常5階建てです。1階には管理人が住みます。2階に住むのはその建物で一番の金持ちです。それから上に行くほど住人は貧乏になっていきます。一番上の屋根裏部屋には女中とか下男が住んでいました。ゴリオ爺さんは、最初は当然2階に住みます。ところが娘たちに金をむしり取られるにつれて、1階ずつ上の階へと移っていき、今では最上階の一番家賃の安い部屋に住んでいます。だから下宿人仲間から「ゴリオさん」ではなく、「ゴリオ爺さん」などと馬鹿にした呼び方をされているのです。
ゴリオ爺さんの隣の安部屋に下宿しているのは、ラスティニャックという貧乏学生です。地方都市からパリにやってきて、大学で法律を勉強しています。貧乏ですが、家柄は由緒ある貴族です。パリで一年暮らしてみて、この町で出世するには、社交界に出入りして、有力な貴婦人の庇護を受けるのが早道であると考えるようになります。そこで親戚筋のつてをたどって、遠い親戚である大貴族ボーセアン婦人の舞踏会に招待してもらいます。舞踏会ではいろいろ失敗をするのですが、まず気がついたのは社交界に出入りしている若者の服装が、非常にスマートであり、自分の服装がどれほど野暮かということです。やむを得ずラスティニャックは母親に頼み込み、妹たちにも無理を言って、家族からありったけの現金を送ってもらって、最新流行の服を仕立てます。
この下宿屋には、そのほかヴィクトリーヌという娘さんが叔母と二人で住んでいます。ヴィクトリーヌの母親はすでに亡くなっています。父親はタユフェールという銀行家なのですが、ヴィクトリーヌを娘として認知しようとしません。自分の子ではないと思っているのです。要するに妻の不倫を疑っているのです。タユフェールは若いときに人を殺して大金を奪った、それを元にして今の財産を築いた、という噂があります。その全財産を一人息子に譲るつもりです。ヴィクトリーヌはどうやらラスティニャックに好意を抱いているようです。
さらにはヴォートランという得体の知れない男がいます。実はヴォートランは大悪党でして、脱獄囚なのですが、根性が悪いのではなく、ちょっとした人物です。泥棒やアウトローたちから信用がありまして、泥棒たちから金を預かったり、大きな犯罪を計画するときに資金を融資したりする、裏の世界の金融業のようなことをやっているらしいのです。ヴォートランにはある種の哲学がありまして、あらゆる財産の出発点には犯罪がある、したがって金持ちから金を巻き上げるのは悪いことではない、とか、強いものがあらゆる手段を利用して、弱いものを犠牲にして生きていくのは当然であって、それができない者が社会では敗者になる、などです。
ヴォートランは先輩ぶって、若い男の保護者になるのが好きでして、ラスティニャックに如何に生きるべきかを説教します。法学部を出て、裁判所に勤めて、転勤をして、上司におべっかを使って、わずかばかりの持参金つきの女性と結婚して、40〜50歳になったところで、相変わらず高のしれた貧乏暮らしではないか、そんな人生はつまらないではないか、というものです。このあたりはわれわれのサラリーマン生活の解説とよく似ています。
ラスティニャックに対するヴォートランの提案は以下の通りです。「ヴィクトリーヌはおまえに気がある。自分は知り合いに頼んで、ヴィクトリーヌの弟を決闘で殺させる。一人息子が死ぬと、父親はヴィクトリーヌを認知するほかない。そこでおまえはヴィクトリーヌと結婚する。持参金は100万フランであろう。」100万フランというのは、現在の日本の金にすると、5億円程度です。すべてがうまくいったら、自分に持参金の20%つまり日本円にして1億円をいただきたい、というものです。ラスティニャックはここしばらく、社交界に出入りし始めて以来、金の力を見せつけられ、自分がいかに貧乏であり、いかに無力であるかを思い知らされていたので、この誘惑に負けそうになります。
ところでこのころにはラスティニャックにも愛人ができかけております。それがゴリオ爺さんの娘、銀行家のニュッシンゲンと結婚したデルフィーヌです。デルフィーヌは貴族の社交界に出入りしたいのですが、夫は金持ちとはいえ、ブルジョワであって貴族ではないので、それがかないません。姉のアナスタジーは伯爵と結婚しているので貴族です。デルフィーヌはそれが悔しくてなりません。そこで大貴族で社交界の花形であるボーセアン婦人の親戚であるラスティニャックを愛人にすると、社交界に出入りができると期待しているのです。実は、ボーセアン婦人の舞踏会という餌をちらつかせると、デルフィーヌが現在の愛人をおまえに乗り換えるぞ、という作戦を愛人募集中のラスティニャックに教えたのは、ボーセアン婦人自身なのです。
ボーセアン婦人にも以前から愛人がいます。『ゴリオ爺さん』という小説が描いているのは、19世紀初め頃の上流階級なのですが、この小説に登場する奥様方は自分の愛人のことを夫に隠していません。世間にも隠していません。これはパリだからでして、地方都市ではそうはいかないだろうと思います。ボーセアン婦人の愛人はダジュダ=ピントというポルトガルの貴族です。ところがこの頃ダジュダ=ピントには、大富豪のロシュフィド家の娘との婚約の話が進んでいたのです。このことはすでにパリの社交界に知れ渡っており、知らないのはボーセアン婦人だけだったのですが、ボーセアン夫人もようやくことの次第を理解し始めます。