映画を読むとはどういうことか 
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溝口健二の文体

 溝口健二には、芸道もの、歌舞音曲の世界が舞台である映画があります。逆境にある男を助けるために女が犠牲になるというメロドラマですが、『折鶴お千』(1935)、『滝の白糸』(1933)などをサイレントのころから撮っています。溝口自身の姉が芸者で身請けされたため、そのような世界に親しかったのでしょう。溝口は、芸道ものを始め、様々なジャンルで活躍しましたが、小津とは対照的な世界を対照的な方法で描きました。
 『残菊物語』(1939)の有名な引きの長廻しのシーンは、お徳という子守の女を演じる森赫子が花柳章太郎に夜遅く会う場面です。これは7分以上のショットで、典型的な長廻しです。ワンシーン・ワンショットでカメラは非常に引いており、ハリウッド的なクローズ・アップを使わず、ロング・ショットの水平移動なのですが、非常に感情がこもっている場面です。お徳と章太郎の身分違いの恋、これから以後隠さなければならない苦しい恋に相応しい長廻しといえるでしょう。
 日本では有名な監督になったら必ず1つは忠臣蔵を撮ると言われており、お前もやれと言われて撮ったのが『元禄忠臣蔵』(1941)だと言われていますが、討ち入りは嫌だと溝口は言ったのです。討ち入りがない忠臣蔵などはないのですが、討ち入りはやりたくないと言った溝口は、討ち入りのニュースを女たちが手紙で知るというように、男中心の物語を女中心の語りに意図的に変えたのです。(このときに美術監督をした新藤兼人の話を聞いたのですが、あの時は本当に困ったと言っていました。)語りはやはり長廻しで7分ぐらい延々と続きます。四方田犬彦は、昔の手紙は映画のリールのようにぐるぐると巻かれているので、手紙を読む場面は女の人が映写機のフィルムを回して映画を作っているかのようだと、面白いことを言っています。周りは闇で、闇の黒さと手紙の白さがコントラストを成しています。この場合、浅野内匠頭の妻である瑤泉院も観客の立場に置かれています。読んでいるのは戸田局ですが、画面下にある影が最後にひれ伏し、これも観客だと考えていいと思います。わずかな黒い姿しか見えませんが、物言わないが存在感があり、これがまた効果的です。
 『雨月物語』(1953)では、しがない田舎の陶工を演じる森雅之が、妻である宮木、田中絹代を見捨てて、生き霊である魔性の女、京マチ子と都会で夢のような暮らしをする場面がありますが、これはゴダールが絶賛し、影響も受けた撮影です。場所の転換、移動撮影が非常になめらかです。知り合ってから数カ月後という時間の経過、快楽の歳月をあらわすショットが見事に表現されています。最後のところでは、森雅之は、生き霊を振り捨てて、「自分は間違っていた」と、やっとの思いで田中絹代のもとに戻ります。ここで溝口はカメラの軸を180度回転させ、2回転させています。現実と夢がこの2回転で混じり合うのです。じっと座っている宮木の姿を見て、私たちは歓喜する森雅之同様、田中絹代は生きていたのかとホッとするのですが、実は、落ち武者に襲われた彼女はもう死んでいるのです。森雅之がみたのは亡霊でした。歓喜から絶望に突き落とされる人間を捉えた優れた映像であることが分かると思います。
 『山椒大夫』(1954)は、平安時代末期の差別の問題とかかわる映画です。だまされて誘拐された安寿と厨子王が母と別れる場面は、ダドリー・アンドリューが詳しく分析しています。力強い対角線と画面の奥行き、手前から奥への人の動きを効果的に使って、荒々しい効果のあるモンタージュを作っています。異様な木が不安感をかき立てますが、枝も木も岸も船の帆先も全部対角線になっています。船の帆先と陸も対角線、奥に向かっていく移動も対角線で、海であるにもかかわらず奥行きがあるシーンです。構図がやっと平面になったときには召使いが死んでいます。安寿が入水自殺するシーンでは、垂直の構図と円の構図が効果的に使われています。厨子王を救うために自ら入水すると、波紋が丸く広がっていきます。召使いが祈っています。ここでもカメラをすごく引いていますが、ロング・ショットながら感情が込もっている場面です。この波紋が人を黙らせ、厳粛にさせるとダドリー・アンドリューが言う通りです。円とは普通平和の構図ですが、対角線の荒々しい暴力の構図と対比されて、ここでは死を受容する象徴として円の構図が使われています。
 失明した母、田中絹代と、厨子王の花柳喜章が、長い歳月の末に再会するあまりにも有名な結末、佐渡のシークエンスの10数分に向かって、溝口は一直線に力強く描ききっています。世界映画史上に残る傑作といえるでしょう。
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