ロシア文学の再解釈と映画化 ―最近の傾向をめぐって― 
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ペレストロイカ以後

 その兆しになった1つはアブラーゼ監督の『懺悔(パカヤーニエ)』という作品ですが、これはスターリン時代の粛清を婉曲的に批判しているものです。
 また、『残酷なロマンス』は金が愛を妨げるというテーマで、日本では戦後すぐに金子幸彦氏に訳された、有名な『鋼鉄はいかに鍛えられたか』の作者と同名の、アレクサンドル・ニコライヴィチ(オストロフスキイ)の『持参金のない娘』をモチーフにしています。『鋼鉄はいかに鍛えられたか』は岩波文庫にも入っており、紛らわしいのですが、著者はニコライ・アレクセイヴィチ(オストロフスキイ)で、別人物です。19世紀の半ばから後半に活躍した、この人の作品が映画化されました。要するに、現代の風潮を批判したり風刺したりするために古典を持ってきております。これが1つの特徴です。この映画では愛と金の問題を取り上げており、日本では公開されていませんが、ミハルコフが俳優として出ています。
 このような傾向は例えば『クロイツェル・ソナタ』にも出てきています。ペレストロイカが始まると、コーペラチーフなど生協のようなかたちで企業が作れたので、目端のきく者は金もうけに走りました。ロシア語ではお金のことを「ジェーニギ」と言い、日本語の「銭」と似ていますが、ジェーニギ、ジェーニギとみんなが言い出しました。そういう中で男女関係なども非常に殺伐としてきて、あなたは何回目の結婚ですか、3回目、4回目という話が当たり前になってきました。つまり、男女の関係も揺らいでくる中で公開されたのが『クロイツェル・ソナタ』なのです。
 この作品では嫉妬の感情と人間の愛のいい加減さを描いており、原作には非常に忠実ですが、当時としてはかなり大胆な性描写を行い、人間の性欲がもたらす妄想が殺人に至るという悲劇を描いています。トルストイの作品には人道主義などというレッテルが張られていますが、彼はドストエフスキイに負けず劣らず人間の暗部を描いています。特にその頂点が『クロイツェル・ソナタ』で、浮気をしたという疑いで自分の妻を殺しに行く場面はまるで『罪と罰』を思わせます。
 『黒い瞳』の原作はチェーホフの『子犬を連れた貴婦人』です。黒海に突き出たクリミア半島にあるヤルタは、第2次世界大戦末期のヤルタ会談で有名になった帝政時代の保養地ですが、この作品はそこで起きた不倫物語です。原作では保養地だけの恋に終わるつもりでいた主人公が、忘れられずにペテルブルグまで人妻を追いかけていって、この後も苦しみが続くだろうというかたちで作品は終わっています。映画ではこのモチーフにいろいろな要素をミハルコフらしく組み合わせていったものです。
 まず、イタリアとの合作でマルチェロ・マストロヤンニを使っています。そして、当時ヨーロッパでは有名な温泉地バーデンバーデンを舞台にしています。ロシアから来ている貴族の奥さんと一夜の契りを結び、帰ってしまった彼女を忘れられずにロシアへ追いかけて、ロシアの高官の奥さんに「割れないガラス」を売り込もうというかたちで行くのです。イタリアのブルジョワがマストロヤンニですが、自然を守る運動をしている人たちが出てきたり、当時のいろいろなトレンドを組み入れたりしています。さらに、イタリアの銀行家であったのに破産をして没落し、妻とも離婚して、汽船の中のレストランで落ちぶれた給仕をしているマストロヤンニが、語りかけてきたロシアのさえない男と2人で話をしていると、そのさえない男の奥さんがかつて自分があこがれた女性だったというどんでん返しがあるのです。そのようなエンタテインメント性を入れて、興行的にも大成功した作品です。
 つまり、ミハルコフはアメリカを批判していますが、アメリカのエンタテインメントを非常に取り入れているのです。私などは作品によっては嫌いなものも多く、『黒い瞳』は当初感動をしたのですが、何回も見ているうちに計算が目について嫌だなと、少々不純だという感じがします。その点については、『黒い瞳』の脚本を書いたアレクサンドル・アダバシャン(愛称:サーシャ)に、愛知県立大学の非常勤講師であるスヴェタラーナ・ミハイロワ氏がインタビューしており、「私の思いがけない出会い」の中に記されていますが、最近のミハルコフは「事務所」になってしまったと言っているのです。このような批判も一方ではあります。

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