ロシア文学の再解釈と映画化 ―最近の傾向をめぐって― 
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ソ連崩壊後

 いろいろな文学作品が時代を切る1つの枠組みとして利用され、あるいは社会主義リアリズムという中では時代を批判する隠れミノとして映画に使われてきました。
 『コーカサスの虜』は、トルストイの原作を、チェチェンという現在ロシアが抱えている大問題を背景に読みかえたものです。トルストイの原作ではチェチェンではなく、コーカサスのタタール人に捕らえられたロシア人の捕虜がおり、タタール人の娘に世話をされて恋心を抱いて帰国をあきらめるという話ですが、その筋はわりと忠実に追っています。タタール人ではなくチェチェン人になっています。
 この『コーカサスの虜』という題では、ロシア文学には4つの作品があるのです。1つはプーシキンの長い詩にあります。そして、プーシキンのやや後の作家レールモントフにもあり、さらに今挙げたトルストイです。帝政時代のこの3人はチェルケス人であったり、タタール人であったりするわけですが、いずれにしろコーカサスにおいてロシア人が捕虜になるという物語です。最近(1995年)出た現代作家マカーニンの作品ではやはりチェチェン人が背景にありますが、捕虜になるのは逆にチェチェン人の美少年なのです。同性愛の問題がそこで描かれています。映画『コーカサスの虜』も非常におもしろく、主役を務めたのが監督セルゲイ・ボドロフの息子、セルゲイ・ボドロフ・ジュニアです。最近ロシアでヒットした、かなり暴力的な映画『ロシアン・ブラザー』の主人公にもなっています。
 このように、チェチェン戦争の悲劇をトルストイの作品という枠組みをかけて描いているのですが、やはり最後には救いがあります。娘の手引きによって脱走しようとしたところ、娘の父親に見つかって銃殺されようとするのですが、結局は銃殺されません。そして、解放されるのです。最後は、ロシアのヘリコプターがチェチェンの村を爆撃するためにガーッと空を飛んでいくところで終わっています。非常に美しい映画です。
 最後の作品『ムムー』は2度目の映画化です。この映画を作ったユーリー・グルィモフはコマーシャルフィルムの作家です。これは今までの作品とは違って、文学の枠ということを非常に意識していたもので、これ自体が一個の独立した作品になっています。筋は原作にのっとっていますが、イマジネーションが全然違うのです。トゥルゲーネフは農村の生活、農奴の生活などを描きました。この作品も問題になっているのですが、主人公と同じような人が農奴におり、自分の母親など実話を描いたと言われています。
 夫を亡くし、子供たちももう自立し、お金はあるが暇をもてあましている女性の空しさ、空しさゆえの意地悪さを描き、女主人公の内面に踏み入っていく作品ですが、あらすじを紹介します。女主人はゲラーシムという大男に慰みを求めます。つまり惚れるのです。しかし、ゲラーシムは農奴の娘が好きで、彼女の相手にはなりません。彼女は意地悪をして、タチヤーナを別の男と結婚させます。ゲラーシムはタチヤーナが村を去るときに拾った雌犬を一生懸命にかわいがりますが、女主人が犬をあやそうとしても犬がなつかないので、犬を捨てるように命じられます。またしても自分の意志が通じないということで、犬の鳴き声に夜中も眠れない状態になり、結局ゲラーシムは犬を川に沈めて殺し、自分は村を去るのです。ゲラーシムと犬のかかわりの背後に、非常に孤独な、根源的な生と性の問題に苦しむ女主人公を見事に描き出しています。
 女主人公には夜眠れないときに相手をする専門の侍女がいたということは、原作には1行しか書かれていないのです。ところが、この映画の中ではジュスティーナというフランス系の美しい女性としてあらわれてきています。あきらかに女主人公との性的な関係をうかがわせる存在です。
 また、ムソルグスキーの曲『展覧会の絵』より、『プロムナード』の後の伝説上の『小人』(グノーム)という曲が効果的に使われています。出てくるのは大男のゲラーシムですが。
 村の生活が大変に細かく描かれています。それはいわゆる農奴制のもとで、非常に暗い封建的な束縛・支配の中で農民が搾取されていたという公式ではなくて、ソ連時代からフォークロワの研究などいろいろなものが弾圧を受けながら続いていた成果をとり入れているのです。フランスのアナル派などの影響もあって、農村生活を祝祭という点から見たり、共同体の生活レベルを研究したりして、それが反映しているのです。祭りなどの祝祭や婚礼、共同の食事を通して結構豊かな農村、明るい農村生活が描かれています。その中では大らかなセックスという要素が見受けられます。
 ともかく文学の呪縛からの解放という点では、これは全く新しい傾向だと思います。もちろん枠組みなどはヒントにはなっていますが、原作にはないシーンがあり、別個の作品だと考えた方がいいでしょう。古典文学を大胆に再解釈して映画化するロシアの現状に、新しい文化の胎動を感じています。

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